もうだめかもしれない。

大丈夫ですかと聞かれたら、はい大丈夫ですと言うタイプの人間です。

三連休

昨日までの三連休。初日を迎える前日の夜から5歳の娘がふにゃふにゃ言い出した。彼女が体調を崩すサインであり、ここから始まる地獄の序章に過ぎないことは俺と妻には痛いほどよくわかっていた。まさしく、金田一少年の事件簿で言えば、無人島ツアーに来た初日に死体を見つけ、船着き場に行ってみれば船をつないでいたロープが鋭利な刃物で切断され船はいずこかへ流されている状態、あるいは山中のコテージへ来た初日にバラバラ死体が発見され「じょ、冗談じゃない!こんなところにいられるか!お前らのなかに殺人犯がいつかもしれないんだからな!」と威勢良く出ていったものの、街へつながる吊り橋がこれまた何者かの手により鋭利な刃物で切断され、谷底に橋の残骸が落ちているのを発見した状態、とでも言おうか。つまり後から追って来た金田一に「そう…俺たちは完全に閉じ込められちまってってわけさ…。この『陸の密室』にな!」とかぶっとい字体でキメられた状態に陥ってしまった。うるせーよ。いや、金田一。キメてる場合じゃないんだわ。「!?」とかやってる余裕もないんだわ。三連休初日の早朝4時に「きぼちばるいー」と5歳児がのたうち回る時の絶望、想像したことある?金田一。目を離した隙にオロロロロとダイニングテーブルの上にキラキラの吐瀉物ぶちまけて「はいじゃっだー」と泣いてる5歳児に、お前なんていうの?え?じっちゃんの名にかけてるあいだにゲロぶっかけられるっつーの。娘も口から朝無理やり食べたイチゴだけ放出してて、それがダイニングテーブルの上に胃液と混じって照明に照らし出されてキラキラ反射しててさ、思わずうちの娘はイチゴの国から来た妖精?とか思ったよね。オラ、早く解決しろ金田一。しかもそのあと妻もしっかり感染してダウン。え、コロナ?コロ…ちゃん?コロちゃん?コロ助?コロちゃんパック?あのコロムビアから出てる、カセットテープと絵本がブリスターパックになってるヤツね、はいはい。懐かしいよね。俺持ってたもん仮面ライダーのってオラ、早く罠にかけてこいよ金田一。犯人しか知り得ないトリック自白させてあぶりだせよ。「犯人は…この中にいる!」ってやれよ。コロナどころじゃないんだわ。ウイルス性胃腸炎なんだわ、こっちは。盲点よ盲点。いやー、いいとこつくよね。目の付け所がシャープですわ。まさか、ね。叙述トリックとはね。知らんけど。ということで結局三連休、俺たちはオペラ座館に閉じ込められて一人また一人とファントムに襲われてました。もうコナンでもいい。助けてくれ。

ドン

無料の漫画アプリで「静かなるドン」を読むのが最近の楽しみになっている。1日に無料で読める話数は決められているのだが、その制限がむしろちょうどよい。いくらでも読めたら歯止めが効かない。今はコミックスでいうとまだ20巻くらいのところなのだけど、なかなかのクライマックス。気になって調べたら100巻以上コミックスが出ていて、漫画喫茶でも大変なのに、1日にちまちまCMなどを強制的に見せられながら読み進めている今の俺にとってはまさしく作中の新鮮組3代目・近藤静也が目指す極道解体くらい遠い道のりであると言わざるを得ない。ウィキペディア調べだと漫画が完結したのは2012年くらいらしい。すげー最近までやってたんじゃん。だって中山ヒデちゃんが主演でドラマとかやってたの30年くらい前じゃない?と調べて見たらなんと94年。26年前。ドラマ化されたあとも20年近く連載してたんだ…。言ってよ。ドン。こんな面白いなんて26年前の俺、知らなかったよ。

デスク

会社のデスクにシルバニアファミリーの猫の赤ちゃんを2匹、それと川崎の藤子F不二雄ミュージアムで買ったチンプイのぬいぐるみを置いてみた。かわいいものに囲まれて仕事をすることでかろうじて精神を保っている。30半ばの男がシルバニアファミリーチンプイを置いても恐ろしいだけのため、周囲の人間も特に触れてこないが、唯一俺に心を開いてくれていると俺は信じている妙齢の先輩女性は「かわいいの置いてんじゃん」とボソッと言ってくれたので嬉しかった。言わないだけでみんなデスクの上は小さな自分独自に世界を作り上げているというか箱庭化している人も結構多くて、俺の隣の席に座っている上司の机の上にはジャイアンスネ夫のデカめの人形とスターウォーズベアブリックという「いかにもっすね!」というフィギュアがさりげなく置かれているのだが、今回シルバニアに初めて上司が触れて来た時に「そういうあなたも置いてますよね」と触れてやると「俺はドラえもんに一切興味がないが、誕生日に同期がくれたから捨てるに捨てられず家に持って帰るのも憚られ行き場を失ってここにあるのだ」と教えてくれた。そうなの?しかも「スターウォーズにも一切興味はないのだが、なんかかっこいいと思って買った。映画もこの間初めて見たが、ついていけていない」という。あんたの意思、どこにあるの?と思ったが「あはは」と俺は笑った。俺の背後に座る女性社員の机は既にビレッジバンガードのようになっており、おもちゃの中にパソコンが紛れ込んでいるので、俺が今更チンプイだのシルバニアだので対抗したところでなんとも思わないかも知れないが、俺が日常に持ち込んだこの愛が、俺の心を慰めてくれることを願ってやまない。

会いたいよ

猫がいなくなってから、猫のことばかり気になっている。今日は家の近くの野良猫が、スナックの前に置かれた発泡スチロールに顎を乗せて寝ている姿を見て可愛いな、と思うより涙が出て来そうになった。娘のシルバニアファミリーの猫の赤ちゃん見てそういえば最初にうちに来たときは赤ちゃんだったな、とか思ったり、俺全然吹っ切れてない。未練たらたら。愛情ってそんな簡単に消える訳ないよね。割り切れる訳ないよね。会いたいよ。

ヨボセヨ

アマゾンプライム韓国映画ばかり見ている。ほんの少し前まで食わず嫌いでなんとなく敬遠していたのだが見はじめたら面白い。暴力性や人間の剥き身の感情などが邦画よりも生々しく見ていて気が滅入る作品も多いのだけど、目が離せないというか。引き込まれて最後まで見てしまう、そういう「凄み」みたいなものがあるのでアホみたいにガンガン課金している。面白い作品になんかいつもこの人出てるな〜と思って調べて見たらソン・ガンホという俳優さんで韓国映画と言えばこの人ってくらいめちゃめちゃ有名な人だった。しかもこの間アカデミー賞の作品賞を受賞した「パラサイト」に出てるじゃない。「知る人ぞ知るいい俳優さん見つけた!」くらいに思ってた自分恥ずかしいね。でもいいのよガンホ。決して顔がイケメンとかじゃないんだけど、いい顔なのよ。二枚目もも三枚目も出来るし。ダメそうな男もデキる男もハマって見える(ダメな感じの役多いけど)あと知らなかったけどウォンビンってめちゃめちゃかっこいいじゃん。韓流ブームの時におばさんが熱中してる人くらいにしか思ってなかったけど「アジョシ」って映画見たら「ウォンビン〜!」ってなるレベルでかっこよくて腰抜ちゃった。体バッキバキだし。あと、時々日本語みたいに聞こえる言葉もあるのが面白いです。電話出る時の「もしもし」が「ヨボセヨ」というのが面白いので最近無駄に使っています。

猫が消え、犬が来る。

猫がいなくなってしまった。

俺が高校生の頃から実家にいた猫で、今年で17歳になるはずだった。
やってきたときはまだ生まれて数ヶ月程度の子猫で、実家の玄関近くに突然ふらっと現れた。
ガリガリで耳ばかり大きく目立ち、鼻の通りが悪いのかぐずぐず言っていた。うまく鳴くことができず、ただふがふがという鼻息の音だけが目立った。
母親がこっそり両手で包んで拾ってきたその猫は、買ってきた半生タイプの猫缶をあっという間に平らげた。
小さい体の割に食欲があるな、と感じた。名前をつけていいと言われた俺は「もんた」と名付けた。
小さかったもんたはばくばく食うようになってあっという間に大きくなり、見た目も「もんた」という感じになった。

先住猫が一匹、もんたのあとにもう一匹。
実家では三匹の猫が一時住んでいた。

最長老のミイは人見知りで、何年かかっても人に慣れることはなく、おまけに猫も嫌いだったので、ほかの猫との喧嘩が絶えなかった。
1日中家の中をどたばたと走り回ってはふぎゃあと大きな声で威嚇しまくり、それは朝でも夜でも、ところかまわず続いた。
あとから来た猫はぴーすけと言って、病気を持っていた。
医者に見せても詳しいことはわからなかったのだが、先天的な病気だったらしく、体はいつまでたっても大きならなかった。
しばらくすると体中の骨が変形しはじめ、満足に歩くことができなくなった。
歩くだけで痛いのか、悲しげによく鳴いた。食事も固形物が取れなくなり、缶詰をお湯で溶いてペースト状にしたものを注射器で口に流し入れた。

4歳になる頃、ぴーすけが逝き、12歳でミイも肝臓を悪くして亡くなった。
気高く孤高の存在だったミイだが、最後はおしっこもできなくなり、1日中座ったままおしっこを垂れ流すようになっていた。
その頃社会人になったばかりだった俺は朝うずくまったままのミイの顔に「いってきます」と言って家を出た。
すでにミイの目は焦点が合わないようになっていて、潤んでいるだけなのだが、まるで泣いているようにも見えた。
会社から帰るとミイの姿がもうなかった。
その日の夕飯はチャーハンで、ミイの世話や介護は母親に任せて何もしなかったくせに一丁前に涙だけ出て来るのが恥ずかしくて、顔を覆って泣いた。

二匹の同居猫が亡くなる時も、もんただけはいつでも元気であり続けた。
最初は全然鳴かなかったもんただが、体が大きくなるにつれて丈夫に鼻の通りがよくなったのか、最初はか細く「みい」と鳴き始め、
やがて大きな声で「なーお」と鳴くようになった。
ミイがなくなり、もんたも高齢になったが、声は小さな時のまま甲高く、いつまでも人懐こい、人間が大好きな猫だった。
初対面の人間の前でもすぐに足元に擦り寄っては「なーお」と甘えるような声を出すので、もんたは人気者になった。
エアコン工事のおじさんの前でももんたは「なーお」を繰り出した。「かわいいですねえ!」と言われていた。実際、かわいかった。

15歳を過ぎても元気なもんただったが、少しづつ老化は始まり、日課にしていた散歩の回数も減り、1日中家の中で寝たり、ぼんやりと横たわっていることが増えた。
寒い日に外に出たがるのでドアを開けると、二、三歩外に出て、外気を確認してはサッと家の中に戻るということを繰り返した。
「寒いんかい」とその度何度も突っ込んだ。

だんだんと起きているのか寝ているのかわからないくらいもんたの動きはスローモーションのように緩慢になっていた。
それでも起きている時に目をぱちくりとさせ、そのまん丸な目で足元に擦り寄り「なーお」と甘えた声で食事を催促する姿は我が家にやってきた、生後数ヶ月の頃と何も変わらなかった。
もんたは、かわいい爺さんだった。

もうもんたがいなくなって、二ヶ月近くになる。
いつものように催促された母が、どうせ家の周りをうろうろすれば気がすむだろうと外に出したきり、もんたは戻らなかった。
だいぶボケ始めていたとも思う。外に出て、帰り道がわからなくなってしまったのか、どこかで車に轢かれてしまったのか、若い猫と喧嘩になり怪我をしたまま力尽きたのか。
前向きな考え方をすれば、もの好きな誰かに拾われ、飼われているのかもしれない。ただ、17歳になる老猫をわざわざ飼うとも思えないし、第一首輪をしている。

あの年老いたもんたが、今も元気で生きているとは思っていない。
ただ、最後のお別れができないのは、こんなにも心が落ち着かないものなのだと初めて知った。
猫は死に目を見せない、とよく聞く。弱った姿を見せたがらないので、人知れず死期を自分で悟ると目につかない場所に行くのだと。
あの、大食らいの、甘えん坊の、どこか抜けているもんたが、最後の時だけ、そんな猫らしいことをするなんて、思いもしなかった。
お前は、みんなに囲まれて、そうして死んでいくんだと思っていた。
俺が寝る時、すぐに飛んで来ては布団の横に滑り込んだ来たお前が。
勉強をしている時に限って机の上に乗っかって、参考書の上で腹を出していたお前が。
海苔をかけたごはんや、ラーメンが好きなお前が。
人間みたいなお前が、どうしてこんなときだけ猫みたなことするんだよ。

今日、福岡に住む義父母からLINEが送られて来た。
豆柴を買ったのだという。
手のひらに収まってしまいそうなほど小さなその命の塊は、送られて来た動画の中で落ち着かない様子で周囲を見渡している。
続いて送られて来た動画では既に義母の髪の毛にじゃれつく様子があった。
撮影している義父の甘い声が聞こえる。その豆柴は見るもの誰をもとろけさせるような圧倒的な可愛さを持っていた。
名前は「小太郎」にするのだという。

全く関係がないことなのだけど、小太郎がやってきたことで、もんたは本当にもう、いないんだと俺は感じた。
母親はまだもんたのトイレも、餌入れも捨てられずに残している。家族が集まる時、もんたの話を誰もしない。触れることが、まだできない。

もんた、どこにいるんだよ。
お前がいなくて寂しいよ。たくさん生きてくれて、ありがとう。
俺たち家族と一緒にいてくれて、ありがとう。
お前みたいな猫、二度と会えないと思うけど、どこかで俺たちのことを見ててくれると思ってる。
家族の前では口にできないから、ここに書く。
さようなら、もんた。

記録

会社をサボる。

前日に上司に承認を取って有給を使って休んでいる。衝動的な逃亡でも、社会への抵抗でも、身体的精神的に限界が来た末の無意識の行動でもなんでもない。正規の手続きを踏んで正しく休んでいる訳で、俺は単純に社会人としての権利を行使したまでで、悲しいくらい俺は社会に順応している。

 


3月に東京に引っ越す前まで10年近く住んでいた千葉県の街に来た。

自宅からの最寄駅でいつもとは反対方向の電車に乗る。テレビ東京の番組でそんなのをやっていたはずだ。誰も見ていないが、反対方向に乗る。案の定ガラガラで、苦もなく座ることが出来る。首都圏を走る電車で平日の午前中に座れることなどまずない。

腰を落ち着けて、スマホを取り出す。Ankerのワイヤレスイヤホンを取り出して何を聞こうかと思案する。つらつらとライブラリを見ながら、目に留まった空気公団を流す。ガラガラの車内、窓から射し込む12月の日差し、荒川を渡る時に見えた低い家々の町並みなどを見ながら、こんな時に聞く音楽として、空気公団はかなり「正解」に近いのではないか、と思う。

誰かに問いを出された訳でもないのだが。

 


気温は一日ごとに変化しており、今年はいつまで経っても安定しない。特に平日は家と会社の往復になることも多く、自宅から駅まで歩いて2分、会社の最寄駅から事務所までは駅直結という環境下だと、そこそこ寒い日でも電車の中と事務所内が必要以上に暑いことを思うとついついボリュームのあるアウターを着ることをためらってしまう。先週急激に冷え込んだ際、ついにダウンを取り出した。今日も少し迷って、結局薄手のコートを羽織り、それとは別にマフラーを鞄に入れておくことにした。寒くなったら巻こう。首元さえ冷えなければ風邪を引かない。中学1年の時に女子の体育を担当していたライオネル飛鳥みたいな女性教師が言っていた言葉をなぜか今でも覚えていて、このくらいの時期になると折につけて俺はこの言葉を思い出す。

千葉県にあるこの街は、程よく栄えていて、程よく田舎で、人出が多くもなく少なくもない。初めてこの場所を訪れたのは中学生の頃で、俺は初めて出来た彼女と映画を見に来た。仮にも東京生まれ東京育ちというのに、初デートで渋谷や原宿などには行けず、都心とは反対方向の電車に乗った。思えばこの頃から俺は反対方向の電車に乗りたかったのかもしれない。その時見た映画はディカプリオかなんかが出ていた「メキシカン」とか言う映画だった気がする。とにかくクソみたいな映画だった。しかも今調べたら主演はディカプリオじゃなくブラッドピッドだった。滅茶苦茶だ。何にも覚えていない。

その映画を見てから1ヶ月も経たないうちに俺は一方的にフラれた。公園に呼び出されて別れてほしいと言われた。理由として言われたのは、私は実はメジャーデビューしているバンドのボーカルと付き合うことになったからだ、と言い出したのだ。これにはショックよりドン引きが勝り、こんな女になぜ俺は舞い上がっていたのだろうかと、そのことにもショックだった。未練が無かったかと言えば嘘になるが、とにかくそんなアホみたいな虚言を使ってでも俺と別れたかったのだなと思うと、俺もかわいそうだし、彼女もかわいそうだ。世の中には残酷な嘘が溢れ返っている。

 


改札を抜け、十年間通った駅前を通り、駅から五分ほどの場所にあるショッピングモールへとたどり着いた。

俺が休みを取った理由の一つは映画だった。どうしても「ジョーカー」が見たかったのだ。ネットを見たらこのショッピングモール内にあるTOHOシネマズでジョーカーを上映するのは今日が最後だった。劇場で見ることは諦め、あとでDVDか配信で見ればいいかと思っていた矢先のことだ。これも何かの縁だろうと勝手に決めた。普段あまりどんな映画を見た、という話題の出ないような職場なのだが、なぜかジョーカーだけは皆見たようで口々に見た見たと言い合っており、なぜこれだけ見たいと思っている俺がジョーカーを見れず、お前らが見ているのだ、と行先不明の怒りを勝手にたぎらせていた。

上映時間は午後からで、一日一回のみ。ネット予約すると席はほぼ埋まっておらず、ゆったりと観れそうだった。早めに家を出たので、本屋をぶらぶらと見る。子供が生まれてから、意識的に時間を作らない限り、無目的に本屋をうろつくなどということが出来なくなった。独身の頃、こうした時間がどれだけ贅沢なものかわからずに無為に過ごしていたことを後悔した。そこで平積みになっている爪切男の「死にたい夜にかぎって」を見つけて立ち読みする。ネットで評判は以前から見かけていたので、気にはなっていた。案の定読んでいてすんなり馴染む印象で、自分の好きな文章だと感じたので最初の数ページを読んで購入を決める。最近多いのだが、こうしたショッピングモール内の大型書店には文房具店が併設されているのでふと思い出し、フリクションボールペンの3色入りを買った。600円もすることに驚いた。替え芯は経費としてたのめーるで会社に買ってもらっているのだが、なんとなく外身は自分で購入した方がいいだろうと思ったためなのだが、やはり外身も含めて経費で買って貰えばよかった、とレジに並んでから後悔した。

フードコードに入ってサブウェイでえびアボカドとポテトと飲み物のセットを買う。いつもそうだが、自分にとってのベストな組み合わせというものを思いつかないので、作ってくれるお姉さんに「お任せでいいです」と言う。かわいいお姉さんだった。席に着いてよくよく見てみると、えびアボカドは中身がお世辞にもきれいとは言えないレベルで崩壊しており、かつ「パンは焼きますか?」と聞かれたので「お願いします」と言ったはずなのに、全く暖かくもなく、ひんやりとしていた。あの子、かわいいだけだな、と俺は思った。

 


先週会社でパソコンを打ちながらふと、このままだと感受性が死ぬ、と思った。4月から通っている美容院の担当の女性はいつそんなに行っているのかと思うくらいミュージシャンのライブや演劇を見に行ったり、旅行にも行くし美術館や個展なども見に行っている人だった。聞くと休みは週一日なのだと言う。「一日二箇所行ったりしないと間に合わなくないですか?」と聞くと「午前中ライブ行って、夕方からお芝居見に行ったんですけど、ちょっと静かなお芝居だったんで、そのままずっと寝てました」と言うので笑ってしまった。他にもせっかく買った好きなアーティストのアナログ盤を買って満足したのでまだ聞いていなかったり、そういうことをよくしている人のようだ。俺も村田沙耶香の「コンビニ人間」を立ち読みしてすぐ買ったのに、読んだことを忘れてもう一度買ったことがあるので、なんとなく気分はわかる。少し違うけど。読み進めているうちに「この展開、前に似たような小説があったなあ」などと思いながら結構な分量読み進めていたのだから情けない。

とにかく、その美容師の話をいつも髪を切ってもらいながら聞いていると、結局忙しいから、疲れているからと言うのは言い訳に過ぎないと感じるようになって、妻にも無理を言って少しずつ一人で今まで行きたかった場所や、見たかったものを見に行くことにした。

先々週はその流れの中で渋谷に「象は静かに座っている」を見に行ったし、その次の日には流通センターで行われた文学フリマにも行った。普段からTwitterでフォローしているようなインターネットの世界の有名人たちも出展をしていることを知っていたので、純粋にそこで販売される本が欲しいという思いが半分、そうした人たちに実際に会えるかもしれない、というミーハーな思いが半分という感じだった。こうしたイベントに行くのは初めてだったので、どんな感じかわからなかったものの、流通センター駅からは同人誌と思われる薄い本を持った人をたくさん見かけた。落ち着いた雰囲気の人が多く、意外に思ったのは男性よりも女性が多いな、ということだった。あとTwitterでフォローしている中トロ議長を見かけた。あらかじめ買いたいと思っていたものは決まっていたので、入り口でガイドブックをもらってブースの位置を確認すると早足でそれらのブースを周り「これ一部ください」と決め打ちで次から次へと片っ端から買っていった。立ち読みもせずに突然現れては購入するので、ブースで立っていた人も「○○さんの知り合いですか?」とほぼ100%の確率で聞いてきた。「あ、いえ、全然知り合いではなく、勝手にTwitterでフォローしてまして…」などと答えるときの、圧倒的な自分の何者でもない感じにいたたまれなくなってしまった。最初はTwitterの人に会える!と思っていたものの、いざブースの前に立つと恥ずかしくて「これください」以外は何も言えなかった。おまけにブースには当たり前だが複数人立っているので、誰が誰だかわからないし、本人なのか、売り子だけをお願いされた知り合いの別人なのかもわからない。相手は芸能人ではないので、サインや握手をしてもらうわけにもいかないし結局そのままになってしまった。

人で混み合う会場を抜けてさっさとモノレールに乗り込む。普段仕事でもこのあたりは時々来ているが、休みの日に来るこの辺りの景色はまた違って見える。仕事で来るときは灰色に濁って見えるようなコンテナの積まれた港湾地帯だが、その先の東京湾の水面が陽の光を受けて反射し、きらきらと輝いて見える様も見えるようだ。その景色を見て元キリンジ堀込泰行のソロプロジェクトである馬の骨の「燃え殻」という曲のPVを思い出した。もともと燃え殻は好きな曲だったが、同じ名前でTwitter発という小説を刊行した人が出てきて、それそれと読んでみたらやっぱりよかった。やはり、好きなものはどこかで繋がっている。

購入した中で一番気になっていたのは三輪亮介さんという人が「夫のちんぽが入らない」で有名なこだまさんたちと出していた「生活の途中で」という本だったが妻が仕事から戻るのを待って入れ違いで子供をお願いして家を出たこともあり、俺が会場に着いた14時過ぎには既に売り切れていた。やっぱり人気なのだ。でも以前出していたブログをまとめていた本は在庫が残っていたので、それを買った。

モノレールの中で「やがてぬるい季節は」を開く。とんでもない情報量。字の洪水だった。好きな文章だった。巻末に文章の中に出てくる固有名詞についての説明を付けているのだが、その中のほぼ全てが通っている美容師との話題の中に出てきたものばかりで、自分の共感するものというのはどこか似た者どうしで繋がっているのだな、と感じていたら三輪さん自身もそうした体験をしたことを書いていて「自分の好きなものどうしがつながっていくのはうれしい」という主旨のことを書いていた。字を読むのは少し大変かもしれないが、あの美容師には三輪さんのことを教えたい、と思った。

 


ジョーカーは予想に反さず安定して良かった。

劇場内はほとんど客がいなかったが、カップルが2組ほどいて、物語が進めば進むほどカップルが見にくる映画じゃねえだろ、という気分にはなったものの、そもそもカップルで見に行く為の映画、というものの方が少ない訳で、誰がどんな映画を見に行こうと勝手なのだから気にしている自分の方がおかしい。一番後ろのど真ん中の席を取ってみたら、一番後ろの席に一人で見にきた女性客が結構多く、等間隔で離れて座っていた。ホアキン・フェニックスのファンで何回も見に来ているのかもしれない。想像以上にジョーカーの日常を執拗に凄惨に描いていて、傍から見ればただ単に自分の境遇を誰かのせいにしたかっただけの逆恨み殺人犯でしかないのだけど、どうしてもそこに同情をしてしまう自分がいるのもまちがいない事実。道化師仲間の小人の男性だけは「君だけはいつも優しかった」と殺されなかった。あとほんの少しでも彼の人生に「まとも」な人間がいれば、と思う。彼が最後の一線を越えるまで必死に、健気に努力をしていただけに、感情の発露がある瞬間からの変貌が、切ない。

 


映画を観た後は集中して見ていたせいか、どっと疲れてしまい歩き回る気力もなかったので無印良品をちょこっと見て、最近買ったサコッシュとほとんど同じようなものが990円で売られていたの見てへこんだ。俺が買ったものは5千円していたから。990円で十分だったと思う。

どこかで座ってゆっくり本を読みたかったのでスタバに入り、ショートサイズのラテを頼む。冒険出来ない人間なので出先でスタバに入ると100%何も考えずにこれを頼んでいる

レジに並ぶと俺の前に制服を着た高校生くらいのカップルがいて、店員が支払いを「ご一緒でよろしいですか」と聞くと「いえ、別々で」とあっさり答えていたのがなんかよかった。もしかしたら付き合っているのではなく、ただの友達同士だったからかもしれない。社会人になってそれなりに年月が経ってしまうと女性と飲食店に入るのであれば、男性が奢るもの、という意識が自分の中にはまだある。世代で括るようなことでもないかもしれないが、昭和の終りかけの頃に産まれた世代はまだその意識があるのかも知れない。

窓際の席に座ると、ちょうど日が沈みかける時間帯で、窓の外はモールの入り口になっているので、噴水のある広場と、大きなクリスマスツリーが見えた。三輪亮介さんの「やがてぬるい季節は」をもう一度開く。読んでも読んでも終わらない。今日の日記は彼の日記に完全に影響されて書いている。暗くなるにつれて徐々にツリーのライトアップが浮かび上がってくる。明るかった頃には気がつかなかったが、かなり多い量の電飾が施されていて、結構明るい。何人かの人が立ち止まってスマホで写真を撮っている。こういう写真はいつ見返すのだろう。あ、そうそうこれ、ショッピングモールのクリスマスツリーだあ、きれいだな、とかやるのだろうか。後輩と昼食を食べに行った時にも普通のチェーン店なのに出てきた食事をスマホで撮っていて、「何かにアップするの?」と聞いたら「記録です」と言っていた。とここまで書いて、それは写真か文章かの違いでしかなくて、俺のこのブログと彼のスマホの写真はなんら変わらないということに気がついてしまった。それ書いてどうすんの?記録です。そう、記録に他ならない。それ以上でも、以下でもない。窓際なので長時間座っていると足元から冷えてくる。キリのいいところまでブログの下書きを書いて店を出ることにした。2時間近くいてわかったけど、スタバではノートPCを広げている人は多いけど、俺ほどタイピングしている人はいなかった。みんな何をしているのだろうか。

 

象は静かに座っている

渋谷のイメージフォーラムという映画館で上映されていた「象は静かに座っている」という映画を観に行った。
上映時間およそ4時間。
一人で4時間近くの映画を見るという体験が今まで無かったので、緊張した。トイレが近いので通路側の席を取った。しかもここ最近咳が止まらず、喘息気味のためマスク着用の上、のど飴をしっかりと購入し、ドリンクホルダーには地元の駅で買っておいたいろはすもセット。万全の状態で備えた。

淡い色彩。主軸となる人物、それも顔を中心に焦点があった映像が終始続く。
やたらと歩くシーンも多く、その多くが登場人物たちの背後から捉えたカット。
音楽も台詞も無く、ただただ演技とも記録とも取れないような断片のシーンが繋ぎ合わされる。
軸となる人物以外焦点が合わないままの世界は、そのまま社会と登場人物たちとの相入れない溝にも見える。見る側は彼らを通してしか物語の世界を見ることは出来ず、その世界は歪んでぼやけているし、その分閉塞感に満ちて陰鬱で重苦しい世界を彼らと共有することになる。
室内は基本電気はついておらず、外の世界は常に薄暗く曇り、作品世界は冬で寒く、登場人物たちの吐く息は白い。登場する建物は皆古びて汚らしく、鄙びていてみすぼらしい。
その荒涼とした視界はそのまま登場人物4人の心のうちを表現しているようにも見える。
彼らの周りには常に死がつきまとい、命は簡単に失われていく。生死がさほど大きな問題でもないように扱われ、淡々と日々が過ぎていくことを受け入れていく。暴力、不条理、貧困。
抑制された空間の中で次第に表情を失っていた登場人物たちに感情の発露があり、爆発する。
その感情の行く先は見ている限り決して前向きなものでも無いし、行き場が示唆されるわけでもない。何か希望のようなものを求めているようで、結果的にはどこにも行けないし、何かが変わるわけでもない、と言うことを彼らは分かっているようにも見える。最後も唐突に放り出されるように終わり、開きかけた扉を目の前で閉ざされた気分になった。だけど、実際の人生は大体そんなものだし、俺たちはそれもよくわかっている。

心を亡くす

職場の女の子が休職することになった。入社3年目だった。

フィジカルではなく、メンタルに起因するもので、復帰の目処は立っていない。
そもそも、この職場に戻れるかどうかすら、今の時点ではわからない。
俺の送ったLINEは、数週間経った今も既読にならない。

俺と彼女はコンビで動く立場にあり、日常的に接点があった。
だから、彼女の発しているSOSのサインみたいなものをいくつかわかっているつもりだった。

数ヶ月前、遅い時間まで仕方なく残業していたとき隣のデスクで同じようにパソコンを猛烈な勢いで叩いていた彼女がふと指を止め、言った。

「仕事やめようと思ったこと、ありますか?」

彼女は泣きながら今の業務が自分には向いていないこと、続けるのが辛いこと、仕事を辞めてしばらく休もうと思っていることなどを訥々と話し続けた。
一通り話しを聞き終わったあと、俺は自分の一言一言が彼女の心の中のどんなスイッチを押してしまうのか、慎重に探りながら言葉を発した。
それは、どこに地雷が埋まっているかを丸腰の素手で手探りしているようでもあり、予備知識なく時限爆弾の解除をしているようでもあり、俺はなるべくゆっくりと、平易な言葉を使いながら仕事をやめたあとのことをどんな風に考えているのか、今の業務の何が一番つらいか、どんな風になれば仕事がしやすいかなどを尋ねて行った。
腋の下を冷たい汗が滑り落ちていくのがはっきりとわかった。

気がつけば3時間が経過していた。
フロアには既に俺と彼女しかおらず、既に芯が痺れているになった脳味噌を奮い立たせ、酷い空腹も感じていたので、会社の近くのパスタ屋で遅い夕飯を食べることを提案した。

食事を続けながらも相談は続いた。
俺は最終的な判断は自分でしてもらうしかないが、今は一緒にまだ働きたいと思っている、君は優秀だし、続けた方がいいと思う、という意味のことを遠回しに、なるべく彼女を刺激しないように伝えた。
パスタを食べ終わる頃には、「もう少し、頑張ってみます」と言うまでにはなっていた。

翌日部長に退職の意向を伝えに行くと言っていた彼女に俺は付き添い、部長とともにもう一度彼女の話しを聞いた。
前日の話し合いがあったからか、幾分トーンダウンしていた彼女は、「急な申し出で申し訳ありませんでした。もう一度よく考えてみます」と言い、またいつでも相談を受け付ける、という結論で、話し合いは終わった。
俺は、彼女が今の業務を続けてくれるという判断をとりあえずはしてくれたことで安心したと同時に、彼女を引き止めてしまったことに何かすっきりとしない、もやもやとした感情を抱えたのも事実だった。
別の業界や他の会社に行けば、優秀な彼女はもっと才能を発揮できるかもしれない。
ここに繋ぎとめようとしたのは俺のエゴでしかない。彼女にとっては決していいことではないのではないか。
そんな考えが何度もループしたが、翌日から吹っ切れたように明るい表情で働く彼女を見て、いつのまにかその考えは薄れていった。

それから、まだほんの数ヶ月だった。

その後も声がけをしたり、商談にはなるべく同席したり、一人で決められなさそうな事項があれば一緒に考えてみたりと、周囲に「過保護」と言われるくらい俺は彼女に時間を割いた。ある意味でそれは、合っていたし、間違っていたのかもしれない。

ある日を境に、彼女は会社に来なくなった。
来なくなった日の週末、部長のもとに一本の電話があり、会社に出社できない状態であることが伝えられた。

心療内科の医師と相談の結果、休養が必要になったこと、業務を放棄して本当に申し訳ないとチームメンバーに謝罪していることが、部長の口から伝えられた。

彼女が休養に入る半年ほど前にも、俺のチームからは一人、休職者が出ている。
その休職者も、心のバランスを崩し、今でもまだ復職が出来ていない。
明るく、業務に対しても生真面目に取り組む女性だった。

二人のメンバーが心のバランスを取れなくなって、俺たちのチームはぽっかりと穴が空いたまま、残ったメンバーが少しづつ負担を増やして業務を回すことになった。
残った俺たちの心が壊れているのか、会社に来れなくなった彼女たちが正しいのか、俺には本当に、わからなくなってきていた。

休みに入った彼女のデスクには、私物もまだ残ったままだ。
かわいらしい猫のイラストが描かれたノート。そのノートの中に、俺は彼女が新しい商品企画のアイディアを、上手なタッチのイラストで描いていたことを知っている。「絵、うまいね」と言うと「全然ですよ、やめてください」と言っていたことを覚えている。
前方のパーテーションには彼女が制作のデザイナーからもらった彼女の仕事ぶりを評価する内容の小さな手紙が貼り付けられている。
いつも首に下げたIDカードにくっつけていたボールペンや、彼女の好きなキャラクターの卓上カレンダー。キーボードの下にあるレースのマット。
彼女から渡された資料がいつもいい匂いがするのは、彼女がいつも手につけていたハンドクリームの匂いだと知ったのは最近だった。そのハンドクリームも、使いかけの状態のまま、PCモニターの横にちょこんと立っている。彼女の私物たちは、飼い主の帰りを待つ犬のように、忠実に自分たちの居場所にいた。

どうして。

と言う言葉が溢れてくる。

どうして。

そのあとが続かない。何を言ってもそれは俺の傲慢でしかない。彼女の中の理由があり、その理由を俺が全て理解しようということがそもそも傲慢だ。理由の一つが俺でないという証拠はどこにもない。あるいは、最初に仕事を辞めると言ったときの彼女を引き止めたことが、彼女の大きなストレスになっていたとしたら?彼女を追い詰めたのは俺かもしれない。

デスクを見ているうちに、そんな感情がぐちゃぐちゃに絡まった思いが湧き上がり、まずい、と思った時には涙が溢れていた。
慌てて手で拭うと、後ろから同僚の女性が通りすがりに
「どうしたの、怖い顔して」
と声をかけてきたので、「なんでもありません」と言った。

忙しいという字は、心を亡くすと書く。

心を殺したまま俺たちは、今日も平気な顔をして仕事をしている。

飛行機

出張に行く飛行機の中では映画を見れるので密かに楽しみにしている。先日は「恋は雨上がりのように」を見た。妻が珍しく映画館に観に行きたい、と言って一人で観に行った映画だったので少し気になっていた。俺も妻も水曜どうでしょうが好きで、基本的に大泉洋が出る作品はどれも好意的なので、見てみた。なるほどなーと思った。中年男性と女子高生、という組み合わせは男の頭の中ではどうやっても綺麗なことにはならないのだが、きちんと中高生女子が仮に一人で見に行ってもなんの問題もない仕上がりになっていて、なんというか、自分が恥ずかしくなった。ごめん。頭の中が汚れててごめん、という感じで、部屋でくつろいでいたら女の子が数名どやどやと遊びに来てあまりの部屋の汚さに「あ、今掃除するから、あの、あんまり見ないで…」と言いたくなる類の恥ずかしさだった。エンディングが神聖かまってちゃんの曲でそれもよかった。