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もうだめかもしれない。

大丈夫ですかと聞かれたら、はい大丈夫ですと言うタイプの人間です。

papa

父親の呼び方というのは、いつから固定されるのでしょうか。

 

僕の場合、物心ついたときには「お父さん」で、その前に父親のことを何と呼んでいたのか記憶がありません。

実際自分が父親になってみると息子は私のことを「あーちゃん」と呼ぶようになりまして(そう呼ぶよう言った覚えはないのですが)母親は「ママ」と呼んでいます。

このまま彼がいくつになるまで僕が「あーちゃん」なのかは不明ですが、少なくとも「パパ」ではないわけです。

逆に私の母は自分の母親、つまり僕の祖母のことを「ママ」と呼んでいて、今年六十になるわけですが未だに「ママ」です。

私の父親は自分の母親のことを僕の前では「お袋」なんて言ってましたがいざ当人の前に立つと「お母さん」と呼んでました。

 

親の呼び方というのはなんだか不思議というか、面倒くさいものだなあと思うのです。

 

そういえば中学時代の友人で自分の母親のことを「母上と呼んでいる」と言っていた人がいるのですが、彼は今でも元気で暮らしているのでしょうか。

その後彼の消息が不明な為確かめる術はありませんが、彼が母親のことを大事に思っていることは確かだと思います。

 

僕の父親は下町の親父、という一言に集約されているわかりやすい人間でして、思春期の頃は恥ずかしいなあなんてこともよくあったんですが、二十歳を超えたあたりから「あれ、この人もしかして面白い?」ということに気がついてからはいっきに仲良くなれた、という感じです。

要するに、僕が父親に「父親らしさ」を求めすぎてたんだと思います。

父親はいい意味でも悪い意味でも「父親らしくない」人で、そこに気づけない頃は「この人はなんでこんなに頼りないんだろう」なんて思ってたんですが、今考えると父親は必要以上に「父親らしく」することが嫌いというか、苦手な人だったのです。

だからきちんと父親としての役割を果たしているのに、そうした「父親アピール」というか「父親プレゼン」が無いため、「父とはこうあるべき」というのを友人の父親などを見て感じていた思春期の僕は自分の父親の「父親らしさ」を感じることが出来ずに、多少幻滅してしまっていたのでしょう。

 

大学に入っていろんな人と知り合ったり、価値観を知ったりするとだいぶガチガチな頭がほぐれてきて、自分の考え方の方が間違っていたんだと気がついたわけです。

その時から私の中で父親は「お父さん」から「ようちゃん」という一人の友達のような存在になりました。

父親と友達のような関係、というのがいいのかどうかは別として、今僕と父親はとても話しやすい関係性を築けているように思います。

 

今日も突然電話がかかってきたので何かと思ったら

「車貸してくんない?」

というラフな申し出でした。もちろん了解して貸したのですが、返しに来たときに電話をかけてきて

「今、おまえの家の前にいるよ」

と言われた時は一瞬「あれ、これ怖い話?」と錯覚しましたが、ガソリン代をわざわざ渡しに来てくれていました。

 

僕の中では父親の姿というのがだいぶ前のままで止まっているのですが、会うたびに少しずつ少しずつ年老いて行くのをここのところ感じたりして、それはほんのちょっと複雑な気持ちです。

でも、老いることは悪いことではないですし、過去の父親が通り過ぎてきた季節を、これから僕も通って行くのだと思うと、その入り口に今僕らは立っているのだと感じたりもします。

 

いくつかの季節の中で、僕と僕の息子の中にも通りすぎる春や、冬があるのでしょう。

長い冬が来ることだってあるでしょうが、いつか雪解けが来ると知っている僕は、それを恐れてはいけないと静かに思うのです。