もうだめかもしれない。

大丈夫ですかと聞かれたら、はい大丈夫ですと言うタイプの人間です。

真面目の遺伝子

社会人になってから「真面目だね」と言われる機会が増えた。

「君は真面目だから」「真面目ですよね」「真面目だからなあ」

基本は褒め言葉なんだろう、と思う。少なくとも悪意があって使っているわけではないと思う。
それは素直にそう思う。

けど、その背後にそこはかとなく漂う「…なんだけども、こうだよね」というニュアンスはなんなんだろう。

「真面目だね」という言葉には、その先にある何かを飲み込んで、
相手に伝えずになんとなく雰囲気で「言いたいこと、わかるでしょ?」と同意や理解を促すような意味合いが込められているように感じてならない。

例えば「くそまじめ」とか「ばかまじめ」という言葉がある。

くそもばかも褒め言葉につける形容詞ではないだろう、と思う。そんな形容詞がつく褒め言葉、「真面目」くらいだ。
「くそいい人」とか「ばか明るい」とか、あまり言わない。
そもそもそうした環境が、「真面目」に対する世の中のネガティブな手触りを表しているようにも見える。

あるいは、そう感じる僕自身が偏見を持っているのだろうか。

僕の家はあまり裕福ではなかったので、大学に進学する際に奨学金を受けた。

この先何十年もかけて返済しなければいけない借金に利子をつけたくなかったので、どうしても無利子の奨学金をもらいたかった。
そのためには奨学金を得るための作文を書いて提出したり、面接を受けに行ったりしなくてはならず、
高校三年の夏、僕は他の志望者たちとともに集団で面接を受けたことがある。

自分がどんな受け答えをしたかは覚えていないのに、はっきりと覚えている場面が一つだけある。
面接官に自己紹介を求められた際のことだ。

一緒に面接を受けた志望者の一人、メガネをかけた線の細そうな少年が立ち上がり

「僕は…!」

と言ったまま絶句してしまった。

どうしたのだろう、と見ていると彼は口をパクパクさせてその次に続く言葉を懸命に探しているようだった。
目は一点を凝視しており、顔面も蒼白だった。
大丈夫かな、と思っていると

「僕は、真面目です!!」

と絶叫した。

間違っていない、と思う。
彼は真面目なのだし、彼の個性を主張しただけだ。それは自己紹介という求められた内容に一つも矛盾していない。

それでも、やはりその場にはおかしな空気が流れた。
他人事ながら「だめかもしれない」と思った。

なぜ、そう思ったのだろう。

それは「真面目さ」というものが持っているある種のデメリット、
言葉にするならば「融通の利かなさ」とか「空気の読めなさ」とか「頭の固さ」とか言い換えられるように思うのだが、

そうしたものが、ある種具現化したような瞬間に感じられたからではないだろうか。

特に近年の就職活動などの場で企業がよく使う「我々の求める人材」を指し示す言葉、すなわち

「柔軟な発想を持つ」人間
「自分で考えることのできる」人間
「コミュニュケーション能力のある」人間

それらと真っ向から対立する言葉が「真面目」なのではないかと思うほどだ。

「頭が固く」
「言われたことしかできず」
「話が通じにくい」人間

「真面目」という評価は、すでに「能力が低い」ことを柔らかく言い換えただけの表現と言っても過言ではないのかもしれない。

かつては素直な努力の表現であった「頑張る」という言葉が、
人を生死の境にまで追い込むほどの強力なプレッシャーを持つ、呪縛の言葉になってしまったように。

僕の実家は自営業をしていた。
不況の煽りを受けて店を閉じたあと、父親はその時ですでに50を超えていたが、再就職先を探して働いていた。

僕はそのとき父親が書いていた履歴書を見たことがある。
「長所」の所になんと書いているか、興味本位で見てみたかったのだ。

父親は「勤勉実直」と書いていた。その通りだ、と思った。
彼は冷凍食品の配送や、イベント会場の内装工事の仕事を続けて僕らを養ってくれた。

勤勉実直な男だから出来たことだ。

4歳の息子の様子で気になることがある、と妻が言った。

先日行われた授業参観の際に周りの子供達が騒がしく喋ったり、歩き回ったりする場面でも、息子が体育座りをしてじっとしていたというのだ。
本人に聞いてもむにゃむにゃとはっきり答えない。要領を得ない。

妻は周囲とのコミュニケーションをきちんと取れているか、友達を作って仲良く遊んでいるか、はっきりいつも答えない本人にもやもやとしてものを感じていたようだ。

僕も気になっていたが、それからしばらくして、妻は担任の先生との面談で気になっていた点を聞いたという。
息子が体育座りをして一人でじっとしていたのは、もともと先生が話をするときや準備が終わったあとはそうやって静かに待っていましょう、と教えたからだ、という。

彼は言われたとおりにしていただけだった。

友達ともきちんと遊ぶ時は遊んでいるし、とっても元気ですよ、と言ってくれたのだそうだ。

「○○くんは、とっても真面目なんです」

と先生は言ってくれたのだという。
彼もまた、真面目なのだ。


日本人は真面目だ、とよく目にする。
僕は海外に精通しているわけでもないので、正直外国の国民性をそんなに正確に把握しているわけでもないが、拙い経験値の中でもそれを感じる部分はある。

僕らはみんな、真面目なのだ。
それでもことさらそうした気質が顕著な人を「真面目だ」と揶揄するのは、自分の中の「真面目」を他人のこととすり替えて、逃げられない「真面目の呪縛」の外に自分は存在しているように言い聞かせたいからなのだろうか。

心配しなくても、真面目なのだ。
時間通りに生きているだけでも、僕らは真面目だし、これだけ悩むのは真面目だからだ。

「真面目だね」と言われるたびに「お前もな」と心の中でつぶやいている。


性格や資質は遺伝する。

僕が父親から、息子が僕から引き継いだ真面目の遺伝子はこれからも、多少形は変えていくだろうが、受け継がれていくのだろう。
それは生真面目に、きっちりと継承されるに違いない。

こんなことをわざわざ書き記す僕もまた、真面目であるように。