もうだめかもしれない。

大丈夫ですかと聞かれたら、はい大丈夫ですと言うタイプの人間です。

指輪を外す

指輪を外す癖がある。

癖の話を数日前に書いたときにはすっかり忘れていたのだが、自分の癖なんてそんなものかもしれない。
普段意識せずにやっているから癖なのだ。

ともかく、私はしょっちゅう指輪を外している。
結婚指輪である。

他意はない。
ただなんとなく外している。
家にいても、会社にいてもだ。現に今も私は指輪を外してキーボードを打っている。

基本的に1日中指輪はつけており、外出中に外すことはない。
ただ、会社に到着して、パソコンを立ち上げると同時に私は指輪を外し、そっとパソコンのディスプレイの足元に置き、それからキーボードを叩き始める。いつからそうしているのか定かではないが、やはりキーボードを打つという作業を行う際に、指に違和感があった。なんだか打ちづらいな、いらいらするなーと思って試しに外してみたところ、スムーズに文字を打てたというわけである。

同時に考え事をしているときにペンだこをいじったり、小鼻の脇の匂いを嗅いだりしながら、指輪もいじっていたのだが、そのうち指輪を外したりつけたり、という動作をするようになった。結果的に外したままの方が考え事をするときにはなぜか集中できるようになった。

今では会社にいる間、私は指輪を外しっぱなしになった。
同僚は皆私のデスクのパソコンの前に置かれたままの指輪を見て何か感じていたりするのだろうか。家庭は円満なので全く心配は無用なのだが、確かに気になる状態ではあると思う。

私の中では近いものに腕時計がある。
腕時計って、基本はつけっぱなしにしていることが性質上不可欠な存在だと思うのだけど、つけているうちに
「なんか重いな」とか「邪魔だな」とか思うようになって取ってしまうのだ。

まだ妻と結婚する前のこと。
誕生日プレゼントに腕時計が欲しい、とお願いした。妻は私の腕時計を結局外してしまう癖を知っているため「本当にいるの?」と訝しげだったが、「今度こそは絶対に外さない」と言ってプレゼントしてもらった。嬉しかったのでデートのたびにつけていたのだが、ある日映画を観に行った時のこと。無意識に暗闇の中腕時計を外した私は、そのまま時計を見失った。

外して鞄に入れたつもりだった。
ところが外に出て鞄の中をいくら探しても出てこないのだ。
青くなった。妻に恐る恐る切り出すとめちゃくちゃ怒られた。必死に謝りながら映画館に戻る。すでに次の回が始まってしまったので、終了後に調べてみます、と言われ、仕方なく映画館の近くで時間を潰した。気が気ではなかった。地獄のような時間が過ぎた。
しばらくして再び聞きに行ってみると、探したが、腕時計の落し物はなかった、と言われた。
目の前が真っ暗になった。
盗られた、としか考えようがない。まだ新品に近いものだった。仕方なくそれでももし出てきたら連絡をもらえないかと食い下がり、なくした時間帯、座っていた座席番号、時計のブランド、デザインなどを事細かに伝えて帰った。その日は妻に何も言えなかった。そもそも腕時計を外すという癖がわけわかんないし、それをわかってて欲しがったのに、案の定なくすし、という言葉を受け止めざるを得なかった。

ところがである。
なんとこの腕時計は1週間後、ひょっこり現れたのである。
携帯に着信があり、出てみると映画館の人で、伝えていた腕時計と思われるものを掃除の人が発見したので見に来て欲しいと言われたのだ。
確認しに行くとまさしく私の時計だった。
喜んでそれを妻に伝えると、
「同じやつ自分で買ったんじゃないの」
と言われてしまった。確かに、なぜ1週間後に見つかるのかについては未だに皆目見当つかない。

指輪の話に戻るが、そんな感じで外したりつけたりを頻繁に繰り返しているので、今までにも何度かなくしかけている。
あれ、ない!となって家の中を必死に探し回ることも多い。大抵ソファカバーのしわの隙間に紛れていることが多いのだが、時に自分では意識していなかったカーペットの裏側に潜んでいたりして、その度に私は腕時計神隠し事件を思い出して青ざめている。馬鹿なのだ。
それでも、指輪は今でもここにある。

高校生の頃、はじめて付き合った女性と露天で安いペアリングを買ったことがある。
確かそれぞれ千円くらいで、今の高校生から見たら子供のおもちゃみたいに思えるかもしれないが、私たちにとってはそれで十分だった。
その頃の私にはそんな大切な指輪を外すような癖はなかったが、露天で買った指輪は当然のごとくフリーサイズで私の指には少々大きかった。
ある日ふとしたはずみで指からスポッと指輪が抜けた。
あっ、と思う間もなくアスファルトの上をコロコロと転がった指輪はまるでそういう運命だったかのように、用水路にそのまま吸い込まれていった。付き合い始めてまだ二ヶ月くらいの出来事だったと思う。
嫌なムードを断ち切るように「しょうがないよね」などと言い合って新しい指輪を買った。
それから間もなくして、私たちは別れることになった。
指輪は買い直しても、何かが戻らなかったのかもしれない。