もうだめかもしれない。

大丈夫ですかと聞かれたら、はい大丈夫ですと言うタイプの人間です。

指を舐める

新しいボックスティッシュを出して、一枚目を引き抜こうとした際、
ぎっちり詰まっていて取り出しにくかったので、指をぺろっと舐めた。
自然な動作だった。

舐めることにより指は湿り気を帯び、ティッシュはいとも簡単に引き抜くことができた。

しかし、どこかで引っかかる。
なんだろう。

指を見つめて思った。
今、俺は指を舐めた。


その昔、父親や母親が何かをする際に指を舐めるのが本当に嫌だった。
紙幣を数える時とか、新品のビニール袋を開く時などだ。
なぜ嫌かって、舐めていること自体が問題だと思っていた。

わかる。
だんだんわかってきたのだが、年齢を重ねると指先から潤いが失われていき、何を触っていてもカサカサとしていくのである。
子供の頃、10代くらいまでは人並みに指先も潤っていたのでそうした大人たちの苦しみ、哀愁が産み出した「自ら指先に潤いを与える」という伊藤家の食卓的な知恵を素直に受け入れられなかったのだ。

だが、今も昔も唾液、つばはくさい。
そして、決してきれいなものではない。

これは真理である。生きている限りしょうがないのだけど、舐めて乾けば独特のあのへんなにおいがする。
以前、祖父の家に行った際に電話を借りたら受話器から謎の異臭がして、何かと考えたらおそらく耳が遠くなり始めていた祖父が大声で電話でしゃべっていたために受話器にたっぷりと祖父の唾液が付いていたからだろう、と推理した。
つまり、つばというのはそれくらい取り扱い注意のものだし、みんなそれを認識した上で生活をしているはずなのだ。

いわゆるヤンキーと呼ばれる種類の方々はつばを吐くことを一つの特技として習得している。
中学時代の友人が徐々にヤンキー化していき、外でつばをうまいことピュッ、ピュッと吐いているのを見て、うまいもんだなと思った。
多感な時期だったので、自分でもやってみようと学校のトイレに試しにペッと吐いてみた。
唾液は液体成分よりも泡が多かったのか、全然前に飛ばずに全体にびしゃっと拡散し、結果的に制服につばがかかった。
つばを吐く、というのは技術が必要なのだということを思い知った瞬間である。

「つばを吐く」というのは「天につばする」とか「唾棄すべき」とか、反社会的、あるいは悪とみなされる行為の象徴なのである。
つばというもの、唾液というものはそれくらいカウンターカルチャーなのである。

それなのに、なぜ大人は指を舐めるのか。
指を舐める、ということはこれからその舐めた指が接触するところに自分の唾液が付くのだ、ということをなぜ知っていてそれをやるのですか、というしごく真っ当な疑問なのである。

学校の先生でプリントを配布する際に指を舐めている人がいた。
私はそれが本当に嫌で、一枚目が回ってきませんように祈ったものだ。
だって指が接触した一枚目には確実にその先生の唾液の指跡が付いているはずである。
なんなら当時のプリントはわら半紙だったから、付着した唾液量によっては3枚目くらいまで唾液が突き抜けていた可能性だってある。

その私が。
その私がである。指を自然に舐めていたのだ。愕然とした。

必死に言い訳を考えた。

第一に私は外ではまだやらない。あくまで家の中での話である。

第二に、人に渡すものではない。自分のために使おうとしたティッシュを引き抜くために舐めたのだ。

第三に、行使した対象は捨てることを前提として消耗品であり、そもそもこれからなんらかの汚れを拭き取るために取り出したものなのだ。唾液より汚いものを拭くかもしれないものに対して、唾液をつけることが悪なのだろうか?

第四に、ティッシュは水分を吸収する。ビニール袋のようなものだったら付着した唾液がそのまま残ってしまうし、それが別の場所に着くかもしれない危険性がある。ティッシュは唾液をそのまま自らの体に取り込むからそれ以上唾液が広がることはない。

そう、私の指舐めはまだセーフである。

という言い訳を考えていたら、この間スーパーに行った際、妻と一緒にサッカー台できゅうりを据え置きのロールになっているビニール袋を切り取り、袋を開けようとした時になかなか開かないので親指を口の前に持って行った瞬間に
「あぶねーッ」
と寸前で留まったことがあったので、もう時間の問題であるらしい。

仕方ないので、今後子供に渡すものは無意味に指を舐めて渡そう。