もうだめかもしれない。

大丈夫ですかと聞かれたら、はい大丈夫ですと言うタイプの人間です。

裏窓の目撃者

会社で仕事中に私用の電話をかける際の作法というのは、どのようなものなのだろうか。

これは、だいぶ個人の裁量に委ねられているところが大きいように思う。
人によっては気にせずにそのまま自分のデスクで話し始める人もいる。
もちろんたいていの用事というのは短時間で済むわけだし、そのせいぜい数分という時間にとやかく言う人というのもそうそういないので、
それでも構わないのだけど、私は単純に「誰かにプライベートな会話を聞かれるのは恥ずかしい」という理由で席を立つ。


とはいえ仕事中私が電話に出なければいけない用事なんてせいぜいキッチンの配管の具合が悪いことを伝えた大家からの連絡だったり、
突然かかってくる謎の勧誘だったりと、ろくなものではない。

また、この電話に出るときにどこで電話に出るのか、というのも一つ大きな問題だ。

オフィスから出るとエレベーターホールがあるのだが、ここはオープンスペースと言えまだまだ職場感が強い。
仕事関係の取引先も出入りするし、同僚たちの往来も激しい。
こんなところで

「ええ、ええ。だから最初に出た方に話しましたよ。キッチンのね、配管の方は見てもらったんですけど、お風呂のね。
はい、お風呂のほうがまだ… はい、ええ、ええ。お風呂です。お、ふ、ろ。はい、違います、お風呂です!」

などとやや耳の遠い大家さんとのやりとりをそうそう聞かれたくない。
「あ、あいつお風呂の調子悪いんだ」
と思われながらまた仕事に戻らねばならない。

じゃあどこで電話をするのか?
弊社では外側に面した非常階段の踊り場が喫煙者たちの一服スペースになっているため、こちらは使用できない。

となると、反対側、つまり内側の非常階段スペースとなる。
そこは搬入用の大型エレベーターが設置されている場所でもあるので、普段はそれほど人通りもなく、清掃の人や配送業者の方がメインで使っているので
そこさえクリアすれば静かで非常に話しやすいスペースなのである。

ところが、そうした電話をするのに適した場所であるがゆえ、他にもここで電話をしているというのが存在するのだ。

まれに電話を持って扉を開くと、そこに何やら訳あり気味の電話口を手で押さえたスタイルで話す女性社員などがいたりすると
「うっ」
と足が止まってしまう。
ドアを開いた手前閉じるわけにもいかないので、そのまま平静を装ってそっと傍を通って階段の方まで出る。
仕方ないので階段の途中みたいなところで電話に出たりする。

「もしもし?」

と出る自分の声がやけに反響する。声をひそめないと一階まで反響して筒抜けなのではないかと思ってしまうほどだ(おおげさだが)
ちなみに私は電話に出る声が小さいことで社内では有名である。確かに電話の相手も時々申し訳なさそうに
「あの、お電話が遠いのですが…」
と言ってくれるときがある。申し訳ない。こう言う声なのである。

運が良ければ誰もいないタイミングで搬入用エレベーターホール前で電話に出ることができる。
まったく、電話に出るだけでも一苦労である。こんな苦労をするくらいなら自分のデスクで電話に出ておけばよかった。

電話で話をしながらうろうろとエレベーターホールをうろつき、気がつくと鼻くそをほじったりしている。
会社とはいえプライベートスペースに近い空間であるため、つい家の中のようなフリーダム感でリラックスして電話をしてしまう。
そんな中、ふとエレベーターホールにある窓の外に目を向けた。
向かいのオフィスビルで働く無数の人々の姿が私の視界に入る。

そう、隣接するビルのほぼ同じ階からこちらの業務用エレベーターホールは丸見えなのである。

制服を着たOLさんらしき人が書類の束か何かを持ってこちらをさっと一瞥したように、見えた。
先ほどの鼻をほじっている瞬間は見られていないだろうか、他にも何かしていなかったか。家では癖になってしまって妻に散々注意されている股間を無意識に手でつかんでしまう癖が出ていなかっただろうか。

こちらのフリーダム感に比べ、窓一枚隔てた向こう側のオフィス感、ガチ感たるや半端ではない。パないと言おう。マジ卍。
ごめんなさいという言葉が自然と口をつきそうになる。
そして私はどうでもいい電話を早々に切り上げ、そそくさとオフィスへ戻る。
もちろん窓の外は振り返らず、股間に手を伸ばしていないか、注意深く気をつけながらである。