もうだめかもしれない。

大丈夫ですかと聞かれたら、はい大丈夫ですと言うタイプの人間です。

抜け毛

洗面所の排水溝をふと見やると、髪の毛が絡まって真っ黒になってしまっていた。

いつのまにこんなに詰まってしまったのか、と思ったが、そのときあることに気がついた。

そういえば最近、朝髪の毛をセットする時、私は以前より髪が抜けているのではないか、と。

全身コンプレックスの私にとって、唯一自信を持てる場所、それが頭髪であった。

剛毛というほどではないが、ふさふさと黒く元気な毛が生えているし、
何より33歳というそろそろ白いものが混じってきてもおかしくない微妙な年齢に差し掛かりつつあるわけだが
いまだに黒々としている自分の髪の毛に、どこか驕りのようなものを持っていたことは間違いない。

「髪の毛だけは大丈夫… あれは遺伝だし…」

そう、私の祖父は93で亡くなるまでびっしりと髪の毛が生えていた。
髪の毛は遺伝… 問題ない…

そう思っていたのだが、実家で会う父親の頭頂部が怪しいことに、私は数年前から気がついていた。

あれだけふさふさとしていた父親の髪の毛。
今ももちろん正面から見る印象は変わらない。
染めていることもあって、黒々とした頭髪は実年齢を感じさせないほどだ。
だが、座っている父親のうしろを通った時、私の目に飛び込んできた彼の頭頂部。
そこには、まるで生まれたばかりのヒナのような、か細い頭髪がいたのである。
濡れそぼったそうな、弱々しく今にも「ピイ」と鳴き出しそうな、いたいけな頭髪。
いつのまに父の頭頂部はこんなことになっていたのだろうか。

これは困った。
いままで「頭髪は遺伝の問題」と自分とは関係のないものと割り切っていたのに、父親に薄毛疑惑が持ち上がれば、これは他人事ではない。
祖父との隔世遺伝なのだ、と言い聞かせたところで、その祖父と父親がここ最近日増しに似てきているし、私自身、どんどん父親に似てきている自分を
実感している。
血は強いのである。怖いのである。

朝、洗面所で寝癖をなおしているとき、ドライヤーをかけているとき、ワックスをつけているとき。
今まで特に気にすることもなかったのに、考えてみれば最近は下に落ちた毛を集めて流している。

何気なく深く考えずに行ってきたことだが、今考えてみるとつい最近までそんな必要はなかったはずだ。
おかしい。毛が抜けている。

そして、つい先日のこと。
私はついに白いものを発見した。

しかも、頭髪ではない。
鼻毛である。

鼻毛を切っている時に、何か光っているな、と思ったら、それが白い鼻毛だったのである。
洞穴のような大きく暗い私の鼻の穴の中で、キラキラと白い鼻毛が光を受けて輝いていたのである。
初白髪が鼻毛。まるで自分の初体験を不本意な相手に捧げてしまった少女のような気分である。
その事実を受け止めきれないままでいるところに、今回の抜け毛。
そんな毛にまつわる不安が続くと目につくものも変わってくる。

通勤で使う大江戸線の中に貼られた「育毛の父 チャップアップ」という育毛剤のシールがやけに目に入ったり、
水谷豊が出ている「リアップ」のCMもやたらと耳に残る。

「未来を変えたい?」

という水谷豊の声が私を追う。
やめてくれ。まるで右京さんに追い詰められる犯罪者の気分である。

「人を殺めていい権利など、誰にもありませんよッ!!」

と激高しつつ震わせる頰の肉の躍動さえ目に見えるようだ。

まだ、大丈夫‥とそれでも私はどこかで甘い考えを持っている。
ここで書くことによって少しでも現実ではなく、自分の抜け毛はファンタジーであると思い込ませている。

まずは洗面所に溜まった毛を一度リセットすることから始めよう。
話は、そこからだ。