もうだめかもしれない。

大丈夫ですかと聞かれたら、はい大丈夫ですと言うタイプの人間です。

奥歯を噛み締めている

またアゴが外れてしまった。

正確に言うと、アゴが外れたわけではないのだけど、アゴの開閉をスムーズに行うクッション的役割を行う軟骨(正式名称を医者は説明してくれたが、痛みの余りろくに聞いていなかった)だかなんだかがずれてしまい、うまく開かなくなってしまった。

正確に説明すると上の内容になるので、今回の事象を「アゴが外れた」と人には説明するようにしている。


実はこの現象が起きたのは2回目である。

1度目が起きたのは今から7年ほど前だった。
夜中に痛みで目がさめた。
右顎に違和感を覚える。
動かそうとすると激痛が走り、全く口が開かない。
まあ、朝にはなんとかなっているだろうと、マイナス思考の塊のくせにこういう時だけ無駄なプラス思考を発揮して再び寝た。
朝起きると、激痛で完全に口が開かなくなっていた。
少しでも口を開こうとすると「あががががっ!」となって悶絶する始末。
口を閉じていればなんとかなりそうだった。今なら何が何でもまず病院に行くところだが、当時まだ若かった僕は
「口を開かなければ仕事はできる」
と朝食も取らずにわずかに開いた口に飲み物だけ流し込み、出社した。若さである。

結局出社後に気がついたのだが、人と会話をするのには口を開かなくてはならない。
5歳児でも2秒でわかることだが、当時の僕は「食事を我慢すればいい」と本気で考えて出社していた。
結果的に電話に出るのも仕事で人と会うのにも全てほとんど口を開けずに最低限の文字数で会話を行うはめになった。
その時の僕は痛みで多分口を2ミリくらいしか開いていなかったと思う。ほとんど腹話術だった。

なんとかその日の予定を切り上げ、歯医者へ向かった。
僕も自分がこうした症状になるまで知らなかったのだが、アゴ関連は整形外科では無く「口腔外科」がベターなのだとインターネットには書いてあるのだ。
この口腔外科というやつは歯医者の中でも見れるところと見れないところがあるらしく、歯科のみのところも結構あった。
なんとか近くの歯医者で予約を取り「痛くて口が開けないのです」と腹話術で伝える。僕のにわか仕込みの腹話術はかなりうまくなりつつあり、聞き返されることもなくすぐに医者は処置を始めた。あのまま続けていれば、今頃僕もエンターテイメント業界へ転身していたかもしれない。
処置は簡単に終わり、嘘みたいに口は開いた。痛みも全くなくなっていて「医者ってのはすごいなあ」と僕はアゴをさすりながら思った。
「何か思い当たる節はありますか?」
医者に聞かれ、僕は「あります」と即答した。
当時土日も当たり前のように出勤しなくてはいけないような部署で仕事をしており、毎日のように夜歯ぎしりがひどいと当時付き合っていた今の妻に指摘されていたのだ。多分必要以上に歯を食いしばっていたので、アゴに負荷がかかったのだろうと思った。
ところがそれを聞いた医者は
「今私たちはみんな大きなストレスの中に生きているでしょう。震災以降、常に不安を持っているから、それも大きな原因だと思います」
と突然スケールの大きな診断を始めた。時は2011年。確かに僕が発症したのは3月11日の東日本大震災から数ヶ月後の出来事だったため、そこと結び付けても全く不自然ではないのだが、僕としては自分のアゴが外れたことと未曾有の災害との関連を指摘され、なんだか恥ずかしくなってしまった。
僕は目の前のことに追われてストレスを溜め込んでいるだけだったからだ。

結局その後何事もなく、アゴは正常に動いていたのだが、また最近になって外れてしまった。
今回医者に指摘されたのだが、どうも僕は無意識に歯を食いしばっているらしい。
「普段のなかで少しでも歯をくいしばっていると気づいたら、歯を離すよう心がけてください」
と言われてジョークかとおもったら、マジだった。助手についていた気っ風の良さそうな中年女性は
「頭の中ではなせ、はなせ、はなせって思ってた方がいいのよ」
と言い、医者は
「パソコンに付箋で「歯を離す」「噛みしめない」と付けて常に意識している人もいます」とアドバイスしてくれた。
くいしばってしまう人というのは僕が知っている以上に多いらしく、皆意識して食いしばらないようにしているのだという。

帰り道、ごった返す待合室を通るだけで奥歯を噛み締めている自分に気がついて、慌てて口を開いた。

今僕は頑張って口を開くようにしている。
もうアゴが外れるのはいやだ。とても痛いから。