もうだめかもしれない。

大丈夫ですかと聞かれたら、はい大丈夫ですと言うタイプの人間です。

つまんでやろうか

■なんのためにブログを書くのか、あるいは読むのかということを考える。

 


世の中にはプロの書き手という人がそれこそ星の数ほど既に存在していて、その人たちによる極めて精度の高い、研ぎ澄まされた文章というものが流通している。

限られた人生の時間の中でそれらを読むだけでも十分人生は価値のあるものになって行くだろうし、得られる情報としても事足りるとは思う。

それでも俺は自分の文章をブログの場に書くし誰かの書いた文章を読んで見たいと思う。

 


個人のブログというのは、基本的にはどこにでもいる、なんの変哲もない「自分と変わらない」無数の人たちが、実はこんな日常を、こんな思いで過ごし、こんなことを考え、そしてこんなことをした、という日々の記録だ(もちろん専門性の高い有益な情報を厳選したブログだってたくさんあるけど、そういうプロに近い人ではなく、ふつうの人が、ふつうの暮らしの中で思ったことを書いている、いい意味で「無益」な文章の方が俺は好きなので)

 


それを読むことで、「自分にはなかったけど、こんな考え方があるんだな」とか「悩んでいたけど、こんな風に向き合っている人がいるじゃないか」とかって新しい考え方に気づかせてもらえるし、あるいは現実問題として直面しているシビアな状況と向き合うための勇気を与えてくれる、背中を押してくれるきっかけになったりもする。

ブログってそういう存在なんだと、最近すごく思うようになった。

 


休み休みだけどそれでもここでブログを書き続けて約4年経つ。書く内容や文体もコロコロ変わっているけれど、またブログをきちんと書いて続けたいなと思う意識が強くなってきている。他に特に趣味もない自分だから、大切に続けていきたいなとも思っている。

酒を飲んで酔っ払って書いているわけではないのだけど、改めてそう思ったので書く。

 

 

 

■子供がやることと言うのは、やはり親からしてみればなんでも面白いし、愛おしい。

6歳の長男は幼稚園でひらがなの練習を何度もやらされているようだが、誰に似たのか生来の面倒くさがりできちんと練習をしない。練習帳を見たが、最後まで反復練習のマスを埋めきっているひらがなが一文字も無い。以心伝心か、俺の不安を感じ取ったように義両親がどっさりとひらがなの練習ドリルを送ってきてくれた。見た目は仮面ライダーなどでデコレーションされているものの、開けばそこはもちろん練習ドリル。無数のマス目に「あ」「あ」「あ」とか書き続けるのが相当苦痛らしく、結局ほとんど使っていない。こっそりチェックしようと思って中を見て見たところ、「あ」だろうが「ぬ」だろうが、マス目には彼の名前の中に含まれる「ま」という字が途中から強引に介入し、何度も練習されている、という状況を目の当たりにした。主張しまくる「ま」。あちらを開いても「ま」、こちらを開いても「ま」である。彼は何しろ6歳になっても我が家の「甘えん坊将軍」の座を妹に明け渡す気はないらしく、「ママぁ」と一日中ママを呼び続け、ひどい時は「ママママママ!」とマを連呼し続けることで己の存在を強烈に誇示してくる

とのことで、彼にとっては「ま」という音そのものが恐らく大事なものなのだろう。

「ま」は前から何度も練習し、彼の中での「自信のあるひらがな」No.1なのである。いや、わかるけど。書ける字何度も練習しても意味ないだろ、という説教は彼には通用しない。マス目を「ま」で埋め尽くされた練習ドリルを手に俺はどよんと顔の左上に縦線が何本か入って行くのを感じた。どこかから「後半へ続く」というキートン山田の声がした気がした。

 

■長女は今年4歳になったのだが、天真爛漫な反面極めて感情の起伏が激しい。彼女は暴力で全てを支配しようとする。特に兄である長男へは手加減一切なしのストロングスタイル。長男のへっぽこ具合も重なり、しょっちゅう彼は妹に泣かされている。長女の最近の脅し文句は「あとでぶん殴ってやろうか?」だ。最近は「硬いの持ってきてやろうか?」というのもランクインしており、先日俺が彼女が寝ているときに近くで屁をこいたら「硬いの持ってこようか?」という謎の寝言を発したのは、どうもこれだったらしい、ということが判明した。

つい最近彼女の兄への脅し文句に、一つあたらしいワードが加わっていた。

「つまんでやろうか?」

そう言って親指と人差し指でくいくいっと何度かつまむような仕草を見せるのである。怖。つまむって何。その後長男は実際につままれて大泣きしていた。