もうだめかもしれない。

大丈夫ですかと聞かれたら、はい大丈夫ですと言うタイプの人間です。

2019 正月

年末年始妻の実家にいた。

俺のことをお客様扱いしてくれるので、上げ膳据え膳というか、まさしく俺は何もせずに過ごせたんだけど、とはいえやっぱり義両親の家。
どことなく気を使う雰囲気はあったし、義両親の家は結構な田舎なので、家自体は最近建てたもので新しいのだが一歩外に出ればそこはまさしく「無」という感じで、荒涼とした大地が広がり、妙にパーソナルスペースがデカめなご近所さんが遠くの方にぽつりぽつりと見えており、フィンランドの行列の並び方もかくや、という有様。

地平線には山々の稜線、そこまで連なる大地は見渡す限り畑。
何を作っているのか具体的にはよくわからない。朽ちた野菜みたいなものが点在しており、天気のイマイチぱっとしない、重く垂れこめた厚い雲が空を覆う天候も相まって思わず「だれかスティーブン・キング呼んでくれる?」とでも言いたくなる重苦しさ。
あるいは横溝正史的とでも言おうか、こんなこと言っちゃうとアレなんだけど「田舎の寒村に伝わる悪しき因習が事件の引き金となった…」みたいなナレーションがどこからともなく聞こえてきそうな風景なのだ。
やたらと側溝もデカいし、やっぱりitが潜んでたかもしれない。
それが見えたら終わりって、見えてた。それ。

俺たちは年末年始の帰省ラッシュを少しでも避けるべく12月31日に羽田を出発、で、今日戻ってくるというスケジューリングだったんだけど
子供を持つ親あるあるで、29日の夜未明娘が何の前触れもなく大量嘔吐。その後夜通し6回吐き続けるという状況に。

決死の覚悟で年末年始と土日も夜までやってくれている緊急治療所という大変ありがたい施設を探して連れていったところ、冬と休みと年末年始と色々重なって体調が悪くなった人々が押し寄せた治療所はさながら野戦病院
看護師が走り医師が怒号を飛ばし患者はさまよい警備員はひたすら「問診票おかきくださーい」とうわ言のように繰り返していた。地獄。あの警備員のおじいさん、大丈夫だったかな。あの人が一番具合悪そうだったけど。

2時間半の地獄を経てようやくいただいた診断は「胃腸かぜ」。
薬もいただき、渋る娘を説き伏せて30分くらいかけてちょびちょびと粉薬を飲ませる。
しばらくぐったりしていたが何とか吐き気はおさまった様子。しかしまだまだ本調子ではない。
この状態で本当に飛行機に乗って行けるのか?万が一機内で吐き気を催したらそれこそジ・エンドである。

出発当日の朝、31日になっても娘は「気持ち悪い」「お腹痛い」と繰り返す。もう時間がない。万事休す。
出発までまだ時間があったので、とりあえずもう一回寝ろ、とソファで強引に寝かせると一晩中吐き続けて疲れていたのかそのまま就寝。
すぐ出発できる準備を整えておき、2時間ほど寝かせて起こしてみると、先ほどまでの具合の悪さが嘘だったかのように元気になった。
しばらく様子を見たがまったく体調的にも問題なさそうだ。妻とも相談し、ゴーサインを出した。出発予定時刻の十数分前の出来事だった。間一髪である。
どうでもいいところで見せ場を作るな。人生のクライマックスを無駄に増やさないでほしい。

こうして何とか31日の夜に義両親の実家に着いたはいいものの、なんとその日の夜に息子が大量嘔吐。
症状は娘と全く同じ。アウトブレイクパンデミック。感染である。
そして1月1日はまるでお通夜のように、義両親、我々夫婦、吐き続ける息子、一人元気な娘というメンバーで24時間ぶち抜きでお送りすることとなった。
息子の看病もしなくてはいけない上、感染を広げるわけにもいかないので外へ出歩くこともできず、ただじっと家の中で過ごす1月1日。
義母が腕によりをかけてつくったおせちが、お雑煮が、おもちが、ダイニングテーブルの上で冷えていくのであった。

なんとか2日からは元気になって、それからは近所の神社にお参りに行ったり、遊びに行ったりと義両親も孫とのひと時を楽しめた様子。
何にせよ、孫の元気な姿を見せるのが何よりの親孝行だったはずなのに、図らずも一番具合の悪いところをライブでお届けすることになってしまうといういらないサプライズを見せてしまったが、最終的には義両親にも喜んでもらえたようだ。

得てして、出かける直前に兄弟喧嘩は始まり
大事な用事の前にゲロを吐く

子供というのはそういう生き物である。

と昔の偉い人も言ってたとか、言わなかったとか。
仮に誰も言っていなくても、我々はそうして家族をやっていく。
それにしても家族って、「族」ってとこに凄み感じません?
暴走族か◯◯一族みたいに物々しい言い方でしか使わないもん。
家の族。