もうだめかもしれない。

大丈夫ですかと聞かれたら、はい大丈夫ですと言うタイプの人間です。

心を亡くす

職場の女の子が休職することになった。入社3年目だった。

フィジカルではなく、メンタルに起因するもので、復帰の目処は立っていない。
そもそも、この職場に戻れるかどうかすら、今の時点ではわからない。
俺の送ったLINEは、数週間経った今も既読にならない。

俺と彼女はコンビで動く立場にあり、日常的に接点があった。
だから、彼女の発しているSOSのサインみたいなものをいくつかわかっているつもりだった。

数ヶ月前、遅い時間まで仕方なく残業していたとき隣のデスクで同じようにパソコンを猛烈な勢いで叩いていた彼女がふと指を止め、言った。

「仕事やめようと思ったこと、ありますか?」

彼女は泣きながら今の業務が自分には向いていないこと、続けるのが辛いこと、仕事を辞めてしばらく休もうと思っていることなどを訥々と話し続けた。
一通り話しを聞き終わったあと、俺は自分の一言一言が彼女の心の中のどんなスイッチを押してしまうのか、慎重に探りながら言葉を発した。
それは、どこに地雷が埋まっているかを丸腰の素手で手探りしているようでもあり、予備知識なく時限爆弾の解除をしているようでもあり、俺はなるべくゆっくりと、平易な言葉を使いながら仕事をやめたあとのことをどんな風に考えているのか、今の業務の何が一番つらいか、どんな風になれば仕事がしやすいかなどを尋ねて行った。
腋の下を冷たい汗が滑り落ちていくのがはっきりとわかった。

気がつけば3時間が経過していた。
フロアには既に俺と彼女しかおらず、既に芯が痺れているになった脳味噌を奮い立たせ、酷い空腹も感じていたので、会社の近くのパスタ屋で遅い夕飯を食べることを提案した。

食事を続けながらも相談は続いた。
俺は最終的な判断は自分でしてもらうしかないが、今は一緒にまだ働きたいと思っている、君は優秀だし、続けた方がいいと思う、という意味のことを遠回しに、なるべく彼女を刺激しないように伝えた。
パスタを食べ終わる頃には、「もう少し、頑張ってみます」と言うまでにはなっていた。

翌日部長に退職の意向を伝えに行くと言っていた彼女に俺は付き添い、部長とともにもう一度彼女の話しを聞いた。
前日の話し合いがあったからか、幾分トーンダウンしていた彼女は、「急な申し出で申し訳ありませんでした。もう一度よく考えてみます」と言い、またいつでも相談を受け付ける、という結論で、話し合いは終わった。
俺は、彼女が今の業務を続けてくれるという判断をとりあえずはしてくれたことで安心したと同時に、彼女を引き止めてしまったことに何かすっきりとしない、もやもやとした感情を抱えたのも事実だった。
別の業界や他の会社に行けば、優秀な彼女はもっと才能を発揮できるかもしれない。
ここに繋ぎとめようとしたのは俺のエゴでしかない。彼女にとっては決していいことではないのではないか。
そんな考えが何度もループしたが、翌日から吹っ切れたように明るい表情で働く彼女を見て、いつのまにかその考えは薄れていった。

それから、まだほんの数ヶ月だった。

その後も声がけをしたり、商談にはなるべく同席したり、一人で決められなさそうな事項があれば一緒に考えてみたりと、周囲に「過保護」と言われるくらい俺は彼女に時間を割いた。ある意味でそれは、合っていたし、間違っていたのかもしれない。

ある日を境に、彼女は会社に来なくなった。
来なくなった日の週末、部長のもとに一本の電話があり、会社に出社できない状態であることが伝えられた。

心療内科の医師と相談の結果、休養が必要になったこと、業務を放棄して本当に申し訳ないとチームメンバーに謝罪していることが、部長の口から伝えられた。

彼女が休養に入る半年ほど前にも、俺のチームからは一人、休職者が出ている。
その休職者も、心のバランスを崩し、今でもまだ復職が出来ていない。
明るく、業務に対しても生真面目に取り組む女性だった。

二人のメンバーが心のバランスを取れなくなって、俺たちのチームはぽっかりと穴が空いたまま、残ったメンバーが少しづつ負担を増やして業務を回すことになった。
残った俺たちの心が壊れているのか、会社に来れなくなった彼女たちが正しいのか、俺には本当に、わからなくなってきていた。

休みに入った彼女のデスクには、私物もまだ残ったままだ。
かわいらしい猫のイラストが描かれたノート。そのノートの中に、俺は彼女が新しい商品企画のアイディアを、上手なタッチのイラストで描いていたことを知っている。「絵、うまいね」と言うと「全然ですよ、やめてください」と言っていたことを覚えている。
前方のパーテーションには彼女が制作のデザイナーからもらった彼女の仕事ぶりを評価する内容の小さな手紙が貼り付けられている。
いつも首に下げたIDカードにくっつけていたボールペンや、彼女の好きなキャラクターの卓上カレンダー。キーボードの下にあるレースのマット。
彼女から渡された資料がいつもいい匂いがするのは、彼女がいつも手につけていたハンドクリームの匂いだと知ったのは最近だった。そのハンドクリームも、使いかけの状態のまま、PCモニターの横にちょこんと立っている。彼女の私物たちは、飼い主の帰りを待つ犬のように、忠実に自分たちの居場所にいた。

どうして。

と言う言葉が溢れてくる。

どうして。

そのあとが続かない。何を言ってもそれは俺の傲慢でしかない。彼女の中の理由があり、その理由を俺が全て理解しようということがそもそも傲慢だ。理由の一つが俺でないという証拠はどこにもない。あるいは、最初に仕事を辞めると言ったときの彼女を引き止めたことが、彼女の大きなストレスになっていたとしたら?彼女を追い詰めたのは俺かもしれない。

デスクを見ているうちに、そんな感情がぐちゃぐちゃに絡まった思いが湧き上がり、まずい、と思った時には涙が溢れていた。
慌てて手で拭うと、後ろから同僚の女性が通りすがりに
「どうしたの、怖い顔して」
と声をかけてきたので、「なんでもありません」と言った。

忙しいという字は、心を亡くすと書く。

心を殺したまま俺たちは、今日も平気な顔をして仕事をしている。