ゴッサムシティにて
娘が自転車に乗れるようになった。
年末に近所の公園に行ったときは1メートルも足を離さずに乗れなかった。
2ヶ月の間に何があったんだ、というくらい簡単に乗りこなしている。
やっぱり補助輪からスタートしないのは無謀だったか、と思っていたのに。
というか、そもそも補助輪なしでスタートしたのは、会社の諸先輩方に
「ストライダー乗ってる子供は補助輪なしの自転車にいきなり乗れる」
という謎の力強いアドバイスを受けたからなのだが、2ヶ月越しにそのアドバイスを実感した次第である。
スピードをある程度出すと安定するのだが、ゆっくりと走るとまだまだふらつく。
河川敷で練習していたのだが、ここ最近は河川敷ってクロスバイク?っていうんですか、あのピチピチの服着てヘルメットかぶってとんがったサングラスかけた人がほっそい自転車でシャーってすごいスピードだして走ってるので、うしろからその人がきた時になんどかぶつかりそうになってしまった。
立て看板で「自転車はいつでも止まれるスピードで」と書いてあるのを最近見かけるようになったし、
途中に「クロスバイクの衝突事故が発生しました。目撃者をさがしています」という看板も出ていたりして、お、これはそろそろ憤激レポートで取り上げてもらわないとな、と一人憤激していた。
河川敷に関して言うと、勝手に野菜植えて収穫しているおっさんよりも、こうした過剰スピードクロスバイクおじさんの方が人命に直接関わる大問題ではないか。と俺は珍しく真面目な提案をしてしまうのである。
その後家に戻る途中で今度は商店街で歩道を歩いていたのに、なぜか車道から歩道側に乗り上げてきたおっさんが俺の目の前で急ブレーキをかけ、俺が呆気に取られて止まっていると、俺がどかないうことに腹を立てたらしく、ものすごくでかい音で「チッ」と舌打ちをして、車道に降りて走り去っていった。
なぜ舌打ちがこれほどしっかり聞こえたのだろう、と走り去る自転車を見て、そのおっさんがマスクをしていなかったことに気がついた。何もかも、めちゃくちゃなジジイだった。
河川敷問題に関しては、ただ単にこの街の民度の問題なのかもしれない。
この街は腐っている。下町のゴッサムシティだ。バットマン不在の。
有吉
俺は有吉弘行が好きなのだけど、世間的にも好きな人は多いのだろうか。
あれだけ多くの番組を持っていて、かつ長く続いているのを見るに好感度が高いのだとは思う。
彼が10年近く前に復活してきたとき、彼は完全に旧来勢力へのカウンターとしての存在だった。
毒舌という言葉で語られることが多かったが、その一言に集約仕切れない鋭い批評性や、本質を一言で端的に突く聡明さに俺は面白いという感情以上のものを抱くようになった。
ラジオを聞き、本を買い、テレビを見た。
語られる言葉や彼の視点にいちいちかぶれるようになった。
しばらくして気がついたのだけど、そうか、「信者」というのはこの状態を指すのだ。
俺は相当盲目的に有吉を信奉し始めていて、彼が良しとしたものはよい、彼が悪としたものは悪いと思い込む状態になっていたように思う。
もちろん俺の有吉好きを誰かに熱く語ったことはないので、直接的な何かが発生したわけではないのだけど、一時期俺が家庭や会社で話す話題や話し方はだいぶ当時の有吉をトレースしていたと思う。
素人が彼の立ち振る舞いを形だけなぞって真似るのは非常に危険だ。それでうまく行く場面も時にはあると思う。だが、それとて自分自身が気持ちよくなっているだけで、周りの人間がどう感じているかはまた別の話だ。素人がプロの芸人の猿真似をして日常生活でいいことなど一つもない。そんなことは学生時代の合コンの場までに終わらせなければいけないのだ。
はたと気がつき、恥ずかしくなった。
熱に浮かされるように有吉を演じていた自分を恥じた。
同時に、信者になることの怖さと、人を惹きつける魅力のある人間がどれだけ注意深く自分の発言を考えているかということを考えるようになった。
彼が世論を先導することもきっとできる。それでも彼をよくみている人ほどわかると思うのだけど、有吉は決して否定的な意見を発さない。ほとんどは肯定的な意見であり、彼が怒りや疑問を投げかける場合もあるが、それとて自分を絶対的な正義と定義してのものではない。自分の影響力を自覚しているからこそだ。
ここ最近MCとしての仕事が増え、彼自身のパーソナリティが発揮される場はラジオがメインになっているが、そのほとんどが下ネタに費やされる空間の中でも時折彼の言葉が鋭く刺さる瞬間が存在する。
リスナーに時に優しく寄り添い時に厳しく突き放す緩急と、どの程度彼が勉強した上で意識的に発言しているのかわからないが、昨今重要視される多様性への視点、思考などへの理解や、常に「今」多くの人が見ているものを知ろうとする姿勢や視野に、これほど有名になり、地位を得ても未だ勉強を続けようとしているのだと感じ、ますます好きになった。
ラジオでかつてどこまで真実かわからないながら、かなり悲惨な目にあったリスナーからのメールを読み終えた有吉が、少し間を空けた後(恐らく罵倒する笑いの方向に持っていくか一瞬の間に判断したのだと思うけど)「立派だよ、立派」とリスナーの健闘を称えたことがあり、それはラジオの中ではあまりなかったことだから、俺はとても印象的に覚えている。
それは、かつて元気が出るテレビのなかで、東大合格を目指す企画で受験に失敗した学生に対し、彼をいじることなく、静かに肩を抱いて寄り添い、一緒に涙を流した高田純次の姿にどこか似ているともいえなくはないだろうか。いえないか。
という、ただ有吉が好きという話。
行かなきゃ
ジムに行き始めたら行き始めたで今度は強迫観念に駆られるようになり、
毎日のようにジムにいくようになってしまった。
数年前にもやはり同じ状態になったことがあり、その時はランニングマシンのやりすぎで太ももが痛くなり、整形外科に行ったら炎症起こしてるから走らないでくださいと言われたりした。
運動をやり慣れていない人間は自分の身の程と適度な運動量がわからない。
今はその頃より歳もとってきており、そもそも過度な運動をできないということもあるので、
回数は多いながらも一回の運動量を減らしている。
それでもほどよく「今日は運動した」という満足感と疲労感を得られる程度に体力が落ちてきた、ということの証明でもあるように思うが、ジムに行って逆に体を痛めるようなことにはもうなりたくない。
ジムに行かずに家でもんもんとステッパーを踏んでいた頃のことを思えば、行けるだけましだ。
緊急事態宣言の出ている出ていないでどの程度ジムの人手が変わるのかは今後見てみないとわからないが、営業時間を短縮している時期でこの程度であれば、24時間営業に戻った時に利用者の時間帯はさらに分散してもっと空いてくれるといいなと思う。ただ、俺が行く人が少ない時間帯ですら休会や退会を届出にきている人もいるので、もしかしたらなくなってしまうかもしれない、という懸念もある。
せっかく運動するモチベーションになってきているので、続いて欲しいな。
そう思って、俺は今日もジムにいく準備をする。
変化
変化についていくことは難しい。
なるべく変化のない毎日を過ごしたいと思っている。
世の中ではそうした変化についていけない人間は淘汰されるのだ、と言う。
上辺では俺もしなやかに変化に対応し、
常に内面をアップデートする生き方がかっこいい、とは思っている。
だけど、自分の身に置き換えたときに、そんなもの糞食らえだな、とも思っている。
何も変えずに済むならずっとそれでも構わない。
けど、世の中の仕組みや自分の暮らしはどんどん楽に便利になって欲しい。
本音はそれである。
俺は今まで通り暮らしているから、世の中だけ便利になってくれ、と。
権利と義務は常にセットで考えなくてはならない。
便利さを求めるなら、自分自身もそれに伴う変化をしていかなければならないらしい。
面倒だ。いやだいやだと思いながら必死になって変化についていく。
いつか変化に追いつけなくなる時がくるのだろう。
変化と並走するレースから脱落した時、もう元には戻れないのではないかとも思う。
その時変化に取り残された俺はどんな風になっているのか。
変化とともに、変化をつくっていく立場の人間はこれからますます増えるのだろう。
つくられた変化に従うしかない立場の人間は、あとをついていくしかない。
娘の机
先日娘に机を買ってあげた。
四月から小学校に入学するので、ちっこくても自分用の机が必要だろうと思ったのだ。
正直なところ、迷った。
というのも、2歳上の兄のためにニトリで買った学習机は物置と化しており、
彼はこの2年間、学校の宿題だろうが公文だろうが、とにかくその机に向かって30分以上何かをしたことがないからだ。
小学校低学年の子供に、机など不要なのでは?と俺は激しく思うようになっていた。
しかし娘に机を買わなければ、それはそれで「どうしてお兄ちゃんには机があって私にはないの!?」となることは明白。
悩んだ末に、使わなければ自分が引き取って作業台(なんの?)にでもするか、と安い机を楽天で購入した。
とにかく安いことと、狭い子供部屋に置く二台目の机ということもあり、幅と奥行きが小さいことを優先した。このあたりニトリでそこそこでかい学習机を買った兄との差が出てしまい、心優しい父である俺は少々胸を痛めたものである。
その机が、先日到着。
組み立て簡単、とうたわれたその机の、想定以上の部品バラバラ具合に圧倒されながらも苦戦すること1時間。やっと組み上がった机に娘は漫画のように飛び上がって喜んだ。
早速机の上に小物をじゃらじゃらと載せ始め、机の前の壁に自分で書いた絵をポスターのようにペタペタ貼り始める。
しばらくすると、すっかり「娘の城」と化したちっこい机に向かって娘は一生懸命お絵かきをし始めた。
男の子と女の子でこんなに違うのか〜とジェンダー的なアレには敏感でいなければいけない昨今、炎上しそうなことを考えてしまったが、そのことを妻に話すと
「ずっとあちこち行かされてたから、うれしいんだろうね」
と言う。
そうなのだ。
娘はいつもダイニングテーブルで粘土をしては汚いからと怒られてどかされ、
リビングのソファテーブルでスライムを使ってはソファに付くからと怒られ、
お兄ちゃんの机には当然座ることは許されず(つかってないくせに)
最近は自分のベッドの上におもちゃを持ち込んだりしていたのだった。
当たり前のように思っていたが、結構かわいそうなことをしていたんだな、と思った。
家の中で居場所を決められずにうろうろしていた娘にとっては、やっと手に入れた安住の地。
はじめての自分の居場所。
それがこのちっこい机なのである。
小さな小さな机の上を、自分の好きなもので飾り付けている娘を見て、迷ったけど机買ってよかったな、と思った。
と同時に、昨年末強制的にフリーアドレスとなり、今や自分の机すら無い中年となった俺は思わず娘に
「やっぱ、自分の机は大事だよな」
と話しかけてしまいそうだった。
正しい街
ホームレスを見かけなくなった。
もちろんいなくなったわけではないはずだけど、普段俺が出歩いている場所で出会うことがなくなった、という意味だ。
子供の頃までは俺の両親も周りの友人も俺自身も彼らのことを「こじき」と読んでいた。
もちろん子供だったので言葉の意味や歴史的な背景など特に考えることもなく、言葉の発音としてただそのように呼んでいただけだった。
俺の地元は下町なのでそうした人が駅の周辺に普通にいて、それによってどうこうということもなくなんとなく住む場所をお互い線引きして共存していると言う感じだったように思う。
祭りがあるとそうした人が自転車の整理をしたり、誰に頼まれたわけでもなく横断歩道に立って交通整理をしたりしていた。
俺の父親は商店街で店を営んでいたのでそうした祭りの手伝いなどに行き、彼らが手伝いなどをしていると食べ物と酒をお礼に渡していた。彼らはそうしてその日の食事を手に入れて、祭りの進行にも特に支障もなかった。商店街の運営する出し物の周辺に少し距離を空けてテキヤも出ていた。たこやきを買うと8個全部タコが入っていなかったり、まあそういうこともあったがなんとなくいろんな人がゆるやかに共存していたのだと思う。
駅前から彼らがいなくなり、駅前にできたタワーマンションの住人の苦情が元で駅前で何十年も前から実施されていた祭りの会場が中学校の校庭に変更された。法律が変わってテキヤが出店できなくなり、焼きそばもたこ焼きも、ヨーヨー釣りもスーパーボールすくいも型抜きも、正規の販売権を得ているかわからない怪しいお面もアホみたいに高い袋詰めの綿飴も買えなくなった。
交通整理や自転車整理を買って出ていたホームレスが亡くなった、という話を聞いた。
通りすがりに殴られ、その怪我が元で亡くなったと言う。彼の死は新聞でも小さく報道された。
世の中の流れによって、街が変わっていくのは仕方がないことなのかもしれない。
それで俺の街が小綺麗になったのかといえば、全くそんなことはなかった。
余裕と活気のない、薄汚れた、相変わらず小汚い街のままだった。
正しい街になったのか。わからないふりをして生きている。
おねがいマイメロディ
昨年始め、コロナが広まる直前娘とサンリオピューロランドに行き、
そこで見たマイメロディのショーを見て泣いてしまった。
天井からゴンドラに乗って降りてくるマイメロディ。
場内の照明は暗く落とされ幻想的にライトアップされる。
マイメロの背後にはレーザーで映し出された巨大ないちご。
そこで歌われたタイトルさえわからない歌がとてもよくて、
俺はまるでマイメロディの優しい歌声に包まれるような気分になり娘が隣にいるというのに
泣いてしまったのだ。
娘は真顔だった。
それ以来YouTubeで検索して定期的にその歌を聴いている。
YouTubeのタイトルには「いちご日和」とあるのだが、これは別の曲なのか、
このショー全体のタイトルなのか判然としない。
ショー自体は全部で4曲歌っていて、全体の3曲目にその歌はあるのだが、
ネットで調べてもわからないのだ。
もしかして、と思いiTunesなどでも調べてみたがサンリオのコンピレーションアルバムなどにも収録されていないようだ。マイメロディの曲で独立して手に入るのはテレビアニメで放送されていたときの主題歌のみらしい。
俺はこの曲のフル尺をぜひ高音質で欲しいと思っているのだが、どうにかして手に入らないものか…
このブログを偶然にして目にしたサンリオ関係者、マイメロディご本人でも構いませんので、
私にぜひあのピューロランドのマイメロディのショーで歌っている曲を売ってください。
おねがいマイメロディ。
善悪の屑
息子が妹に対して時折暴力的なふるまいを行う。
この間も腕に爪を突き立てて皮膚が捲れてしまい、すこし出血もしたので強い口調で叱った。
すると、全くその場とは関係ない話を息子がし始めたのだ。
僕も時々やられてるけど、と。
妹にではない、学校の友達だと言うのである。
気になったのでしっかりと目を見て話さなければと向き合い、
いつからどんなふうにやられているのか、と問うとむにゃむにゃとあまり要領を得ない。
しつこく聞いても息子も話したくない部分もあるようなので、
とにかく今度から暴力をふるわれたら必ず自分でやめてほしいと言いなさない、それでもやめない場合、
相手はお前に暴力をふるう犯罪者で、それは傷害罪なんだと言う。
どんな理由があっても暴力をふるう人間はクズだ、忘れるな、とはっきりと言う。
俺自身数年前に傷害事件に遭い、示談にいたるまで弁護士を通して気が遠くなるほどながくやりとりをした。見た目は元に戻ってもぜったいに全ては元通りにはならない。気持ちの面では一生戻らない。
証拠がないと言われてしまっては元も子もない。今度から暴力を振るわれたら絶対にメモを取れ、何月何日、どこで誰にどんなことをされたかメモにしろ、と言った。
やめないやつは俺がそいつの父親に文句を言いに行くから絶対に証拠を残せと言った。
子供がどこまで俺の本気を感じたのかわからないが、うやむやにすべきではないと思ったから言った。
被害者になる可能性も、加害者になる可能性も子供にはある。
親になり、自分の人生以外に誰かの人生の責任を負うと言うことをなるべく考えないようにしてきてしまったと俺は思っている。そこまで重く考えなくても、親が考えている以上に子供はたくましいよ、という言葉もきっとあるが、それは親が悩まないようにするための優しさであって、現実にはその間に命懸けの親の苦労と絶え間ない努力が存在していることを俺たちは知っている。
人生ホンマ一度きりですからね
仕事でお世話になっている人と雑談している中不意に
「もう大丈夫なんで言うんですけど、僕この間ガンになっちゃって」
と言われ、純度100%混じりっけなしの上物の「えっ」が出ました。
ほぼ同世代の人なので、なんとなく盲目的に元気で健康、と思っていたし
俺以上に体を鍛えていて、なんなら家にトレーニングルーム作っちゃうような人なので
その頑健そうな見た目と「ガン」というキーワードがすぐに結びつかなかった。
ただ、もちろんどれだけ鍛えたところで内臓は鍛えられないし、気分だけいつまで若くても
俺たちはすでに中年と呼ばれる世代に入りつつある。
なんら不思議な話ではなかった。
そして、この感覚は俺が「病気はまだまだ遠い未来のこと」と思い込みに囚われていることを浮き彫りにした。
「ちょっと気になってしっかり人間ドックやって、おかしいねってなって精密検査したら即手術しましょうって流れでした。いやあ、早めに見つかってよかったですよ」
と元気そうに語ったが
「でもね、やっぱり告知されると同時に、ホント嘘みたいに子供の顔が頭に浮かびましたね」
俺も彼もほぼ同じくらいの子供を持つ父親同士。彼はバツイチで子供は奥さんが引き取り育てているが、子供との仲は良好で、月一の子供と会う日は絶対に仕事を入れずにお姫様扱いしているという話を定期的に聞いている。
いつ自分が死んでしまうか、わからないからな。
そう思うと、ああ、手をつけないまま見ないことにしているディアゴスティーニのムーミンハウスをつくる全100巻どうしようとか、いろいろなことが頭に浮かぶ。
別の取引先の社長は「人生ホンマ一度きりですからね」と言っては不倫しまくっており、世の中いろいろな人がいるなあ、と思っていたがなんとなく彼の言うこともわからないでもない。
とりあえず、酒の量減らして運動ちゃんとやろ、と思った。
ほっとけないよ
ミュージシャンとかが
「小さい頃から家で両親がレコード聞いてて、自然と古いロックを聞くようになった」
系のエピソードあるじゃないですか。
あれずっと憧れてましてね。
子供が産まれた時にそうしたいなと思ってたんですけど、
普通に子供って自分の興味のあるもの見たがるし、聞きたがるし
今やYouTubeでなんでも見て聞いてってできるじゃないすか。
ファイヤースティックつないで家のテレビでもYouTube見れるようにしたらもう
夕飯時も子供にチャンネルの主導権があるわけですね。
俺子供の頃父親が野球見るの嫌で夕飯食う時間ずらしたりしてたなあとかノスタル爺かましてたんだけど。
車の中なら密室だし、俺のおすすめアーティストゴリ押ししちゃおうかな、とか思ったんだけど
後部座席にモニター繋いで子供の頃から遠出するときはDVDとか見せてたもんだから、
いまだに近くのイオンに行くだけでも「クレヨンしんちゃん見せて!」とか言う訳。
いいのよ、しんちゃん好きだし。
だけど、ね。
ドライブ中に音楽を、とかそういう空気は一切なし。
で思ったの。
子供に自分の趣味嗜好音楽みたいの聞かせる環境にするには、子供が物心つく前から半強制的に子供の好みとかガン無視して聞かせとかないと、無理じゃない?って。
子供の頃から渋い曲聴いてたやつって、親が子供の興味とか気にせず自分の聞きたいものを聞かせ続けてた結構ヤバい人じゃない?って。俺そんな強いメンタルなかった。
だから今日も一人でこっそり聴いてますよ。
楠瀬誠志郎の「ほっとけないよ」。