もうだめかもしれない。

大丈夫ですかと聞かれたら、はい大丈夫ですと言うタイプの人間です。

ワンダフルライフを探して

■ここ最近Amazonプライムで子供達がちびまる子ちゃんばかりを見ている、という話を数日前に書いたばかりだったので、原作者であるさくらももこの訃報に、驚きとともに不思議な気持ちになった。

あまりにもちびまる子ちゃんばかり最近見ているので、さくらももこのことも気になって、最近ネットで色々検索していただけに、その人が急にいなくなってしまったという事実に、なんとも心もとない気持ちになったのだ。

つい最近彼女が更新したブログも読んだ。他愛ない日常を綴っていて、どこにでもいるふつうの女性なのだと思っていた。30年続いているアニメはこれからも続いていくし、さくらももこの名前もきちんとみんなの記憶の中に残って行くだろう。

ドラえもんサザエさんクレヨンしんちゃんちびまる子ちゃん。何十年も続くアニメの原作者たちは、皆いなくなってしまった。それでも作品は続き、我が家の子供達のように、今日も新しいファンは増え続けている。あなたたちの生んだ作品は、私たちの中にずっと生き続ける。ありがとう。

 

 

「ワンダフルライフ」という映画を思い出した。20年近く前、単館上映された映画で、今は押しも押されぬ大監督の是枝裕和が撮った映画だ。

死んだ人が天国に行くまでの間に、天国まで持っていける生前の記憶を、たった一つだけ選んで持っていける、というお話なのだけど、これって今考えるとすごく残酷だなって思った。今死ぬとしたら俺は多分家族の記憶を持って行くと思うんだけど、妻や子供達の記憶を持って言ったら、自分が子供だったときの父や母や姉と過ごした、幼い頃の楽しかった記憶は失われてしまう。そのどちらが自分の人生において大事だったかなんて決められない。もちろん、どちらも大切な記憶だ。

家族との思い出だけが自分の人生ではない。今はもう会うこともないであろうたくさんの人たちとの記憶も、自分を形作る上で大切な記憶の一つ一つになっている。人生の記憶の棚卸しを、自分の人生の最後にさせられるなんて、それこそ地獄に行くような作業だ。おまけにそのうちほとんどの記憶は持って行くことができない。

由利徹だったと思うのだが、映画の登場人物の一人がスケべなジジイで、散々女関係の話をした挙句、最後に選んだのは連れ添った奥さんとの温泉旅行だった、というシーンがあった。散々話した女の話は照れ隠しで、結局ジジイにとって最後に一つだけ持って生きたかったのは、いつもずっと一緒だった奥さんとの、ありふれた温泉旅行、その何気ない日常だった、という表現が印象に残っていて、今こうして自分が結婚して、子供を持って、歳を重ねてみると、最後に大切にしたいのは結局そういうものなのだろうな、と納得できるようになった。

ありふれた日常の一瞬の中に、いつまでも忘れられない永遠がある。

中島らもがそんなようなことを言っていたような気がする。違うかも。

俺たちはそんな瞬間を探しながら、きっと生きている。