もうだめかもしれない。

大丈夫ですかと聞かれたら、はい大丈夫ですと言うタイプの人間です。

すれちがうだけ

岸政彦「断片的なものの社会学」を読んだ。
正確には半分くらいまでしかまだ読んでいないのだけど
何か言葉にしておきたくて、書いた。

読みながら線を引きたくなるようなところばかりで、
こういう言葉を俺は誰かに言って欲しかったんだな、と思った。

著者は社会学者で、市井の人々へのフィールドワークをたくさん行っている。
誰にも気づかれなかったような、誰も気にもとめなかったような「一般人」の歩んだ人生を聞き取っている。

俺はこの本しか彼の著作をまだ読んでいない。
本来は社会学という学問の範疇で、こうした聞き取った人々の言葉を分析することが主たる目的であるはずだが
著者自身がイントロダクションで語っているように、
この本では、聞き取られた言葉たちは特になんの意味付けも、分析もされず、
ただそこにある。
この日本のどこかに生きている人々の、そのままの言葉が、
「この世界のいたるところに転がっている無意味な断片」が
無造作に放り出されている。

読んでいて、原田宗典の「すれちがうだけ」という小説を思い出した。

「バス」「フェリー」という二本の物語で構成された中編だ。
主人公はいずれも、あるときはバスの中で、またあるときはフェリーの中で、たまたま居合わせた他人の、人生の断片に遭遇する。
しかし、特に交わることもなく、主人公はその一瞬を目撃するに過ぎない。
そこに何の主観が入ることもなく、人生のほんの一瞬横切った他者との接点が、
まさしく「すれちがうだけ」の瞬間が切り取られている。

「バス」では盲目の女子高生がバスが揺れた一瞬、持っていた手鏡を落とす。
それを見た小さな女の子が「なぜ目が見えないのに鏡を持ってるの?」と母親に聞き、
母親は「それはね、女の人だからよ」と返す。

「フェリー」では若いカップルが妊娠をきっかけに将来について話し合い、
泣き出す女にいらだつ男が「こどもが産まれたら俺はおまえと結婚して、おまえの父親とうどん作らなきゃいけないのか」と言う。

ただそれだけの小説なのに、俺はこの小説のことが忘れられずにいた。
そのときの感情が、この本を読んでいて蘇ってきたのだ。
俺の中で言葉にできなかった感情が、きちんと咀嚼され、整理され、腑分けにされて文章として並べ直されているようだった。

子供の頃、父親に言われて商店街の祭りの手伝いをした。
金魚すくいの受付だ。
100円を受け取り、ポイを渡すだけ。
小学校高学年くらいのころだったと思う。
雨が降り始めて、それまでひっきりなしだった人手が少し落ち着いてきていた。
一組のカップルが来た。
中国人らしきイントネーションでカタコトの日本語を話す若い女性が
「さかな、いくらですか」
と聞いた。傍にいる男性の顔が、さしている傘のしたから一瞬見えた。
男性の顔は全体がやけどのあとで皮膚がほとんどない状態で、頭髪もなかった。
俺は「見てはいけない」と子供ながらに思い、
「100円です」と言って小銭を受け取り、ポイを渡した。
女性は礼を言って受け取り、男性と楽しそうにビニールプールの前にしゃがみ込んだ。

二十年以上前なのに、その一瞬のときのことだけは忘れていない。
そのときの、それ以外のことは何も覚えていないのに。

あるいは、社会人になってからのこと。
多分まだ会社に入ってすぐの頃のことだと思う。
昼食を取りに入ったファストフード店で、
俺は注文をした後に財布に金がないことに気が付いた。
慌ててカードでいいか、と聞くとカード払いは受け付けていない、と言われてしまい
すぐにお金を下ろしてくるので待ってほしい、と昼時のファストフード店で迷惑極まりないお願いをしてしまった。
すると、その店のレジをしていた男性が
「いいですよ、お金今度で。次くる時でもいつでも」
と言い出したのだ。
俺は思わず「え?」と聞き返した。

不思議なことに、その瞬間のことはよく覚えているのに、結局そのあとどうしたのかは記憶が曖昧だ。
おそらく俺は近くのコンビニでお金をおろしてすぐに払ったのだと思う。でも、「お代ははあとでいい」と
ファストフード店で言われたあの一瞬の、異様とさえ言える瞬間を、俺は忘れられない。

どうしてそうした瞬間を、いつまでも覚えていてしまうのだろう。
その瞬間、今までもこれからも交わることのない他者同士が、一瞬何かで、どこかで深く結びついた気持ちになるからだろうか。

年齢を重ねていくと、自分の人生のステージが変わっていく。
俺たちは世間一般の「大人」になればなるほど、取るに足らないことすら話題にすることを躊躇い、
日々の忙しさの中でそうしたことはなかったことにされてしまう。
話す言葉、行動、選択にすべて「意味」と「価値」を求められる。
そして、「失敗」がどんどん許されなくなる。

読みながら、岸政彦の視点に、あなたは間違っていない、と言われた気分になった。
どうでもよい日常の一瞬の意味のなさ。
その意味のなさを俺たちは重ねて生きているはずなのに、自分たちでそれを否定する毎日に、俺は無意識に疲弊していたのだと思う。

「手のひらのスイッチ」のこの一節を、俺は誰かに言って欲しかったのだと思う。

「私たちは普段、努力して何かを成し遂げたことに対してほめられたり、認められたりするが、
ただそこに存在しているだけで、おめでとう、よかったね、きれいだよと言ってもらえることはめったにない。
だから、そういう日が、人生のなかで、たとえ一日だけでもあれば、それで私たちは生きていけるのだ」