もうだめかもしれない。

大丈夫ですかと聞かれたら、はい大丈夫ですと言うタイプの人間です。

他人の日記

ブログって、つまり他人の日記だと思うんだけど、
どこの誰かもわからない人間の、しかもプロでもない人間の書く文章読んでどうすんだって自分でも思う。
思うんだけどブログを書く自分がいて、誰かのブログを読む自分がいる。

定期的にこの思いは俺の中で湧き上がってはまあどうでもいいか、と沈静化するというループを繰り返している。

はてなブログで文章を書くようになってもう7年目になっていて、書かない時期もあったりするから正確ではないけど、それもこれだけ長い期間仕事以外で続けていることなんて他にないから、俺はいかに他に何も続けられないかがわかるし、自分は文章を書くことで何かを保っているのだろうと思う。

絵が描けるなら描いていただろうし、歌が上手ければ歌って投稿していたのだろう。
何か自己表現できるものが欲しかったからだろうし、こうした文章は俺の日記だと思いつつ、結局は読んでくれる誰かがいることを想定しながら書いているのが我ながら気持ち悪いと言うかいやらしいというか。

妻と今日話をしていて、俺は妻を羨ましいと思う、と伝えた。
それは大きく言うと2点あって、それは妻が人と自分を比べない、ということと
周りの雰囲気や状況に左右されない、ということだ。

俺は自分の基準がないので結局誰かと比較してできたかできないかを確認している。
そのため、少しでもできないことがあると激しく動揺してそれ以上のことができなくなってしまう。
できるはずだったことすらできなくなる。
妻はそもそもできるできないを気にしておらず、自分はこれをできる。あの人はこれができる。
それでいいでしょ、なんで私があれもこれもできなくちゃいけないの?という考えが根本にあって、それは角度を変えれば屁理屈とも言えるのだけど、正論とも言えるし、そもそも俺が培ってきた文化や価値観と根本的に違っている。だから俺は妻とあまり衝突しないで済んでいるのかもしれない。
俺と近い価値観の人とだったらきっとこんなふうに接することができていない。

それに、俺は周りの空気や雰囲気にものすごく左右されてしまって、家の中でも子供が喧嘩を始めた途端に他のことは何もできなくなってしまう。喧嘩が終わるのをじっと耐えて待つことしかできない。父親面して喧嘩の仲裁を試みたことも昔はあったかもしれないが、今ではただ嵐が過ぎ去るのは一番事態の収拾まで時間がかからないのだとわかってからはできるだけ気にしていない風を装うようにしているが、もちろん心の中は全く穏やかではない。
そんなとき妻が何をしているかというと、涼しい顔でミシンをかけていたりするのだ。
周りで怒鳴りあっていても。そんな環境でも自分のやりたいことを、自分はこれがやりたいからとやり続けている。時間を無駄にしていない。本当にそんな妻の姿が羨ましい。
このことを本人に伝えたところあまりピンときていないようで「そうかなあ」と言っていた。本人は無意識なのだろう。

話は戻るが、他人の日記を読む意味なんてどこにあるのだろう、と思っていたけど一番はやはり自分以外の誰かも「生きている」ということを一番わかりやすく知れるからだ。少なくとも俺にとってはブログが一番俺以外の他人が今一緒にこの時代を生きていることを伝えてくれるメディアなので、読んでいて安心する。精神的な支えなのだと思う。
ここ最近YouTubeで人気のルーティン動画というのも同じではないだろうか。
やはり皆、他人の生活を、生きている記録を見たいし、知りたいのだと思った。

俺も7年前の自分を時々読み返したりするが、自分ですらそのときの記憶は正直ない。
何を思って書いていたのか、本人にすらわからない文字の記述がインターネットに残り続ける。
誰かの目に止まって、その瞬間何かをその人に感じてもらえるかもしれないと思って。