もうだめかもしれない。

大丈夫ですかと聞かれたら、はい大丈夫ですと言うタイプの人間です。

ohakamairi

30にして、初めて自分の意志でお墓参りに行った。

 

ほんの少し前まで、私にとってお墓参りというものは自分の中に存在するものではなかった。それは常に親や誰かにとっての必要なイベントであり、自分は時折それに参加している、というものだったのだ。

 

自分は参加しようとしまいと、誰かがやっているから大丈夫。

そんな立ち位置だった。

 

今年仕事でも私生活でも様々な変化が自分にあった上、祖母が亡くなり墓に入った。

家からそう遠い訳でもないお墓に行かない理由はなく、単に私は面倒だからというだけで不義理を重ねていたのだ。

 

妻に頼み、家族でお墓参りに行くことにした。

寒いが今日はよく晴れていていい天気だった。

 

妻に献花用の花を買ってもらい、車に乗って出かける。

せいぜい30分程度で着くこの距離を、遠いものと感じていたのは自分自身の心の距離みたいなものだったんだろうと思う。

 

墓の周りを掃除し、花を添え、水を墓石にかけて、手を合わせる。

今までなかなか訪ねていなかったことを詫び、これからも見守ってほしいこと、安らかに眠ってほしいことを伝えて、頭を下げた。

 

神社に願掛けをしにいくのとは訳が違うとわかっていても、自分の生活の中にない空間で、普段とは違う行いをするというのは、自分自身にとって何らかの作用をもたらすものなのか、あるいは単にずっとやらなくてはいけないと思いつつやっていなかったことを出来たという達成感からか、私は来る前よりもずっとすっきりとして気持ちで帰り道のハンドルを握ることが出来たように思う。

 

いつか私もこの墓に入ることになる。

そのときまではご先祖様たちにぜひとも温かく見守ってほしいと願うのだ。

hitomishiri

私はあんまり人の目が見れない。

 

ここ数年で決定的にそのことに気がついて、割と愕然として。

 

というのは会社の先輩と喋っているときに私は全く普段通りのつもりだったのにも関わらずその先輩に半笑いで「全く目を見てくれないね」と言われたからである。

 

ショックだった。

ただ、言われてみれば見ていない。

というか、私は自分が対峙している人と自分との間にある空間を主に見ながら喋っているのだった。

私にとっては随分と長い間、それが「人と話す」ということだった。

 

悩んだ。

今まで私と話をしてきた人はみんな「この人全然目見て話さないな。けどそれ言うと傷つきそうだし、黙っとくか」というやさしい人たちばっかりだったということか。どれだけ人に気を使われて生きてきたのか。恥ずかしさと情けなさにやりきれない思いだった。

 

それから意識的に人の目を見て話したりもしてみたが、やはり続かない。

何が私のとってつらいのかと考えると、どうも話してるときに相手が一瞬見せる別の表情を見るのが異常に怖い、ということがわかってきた。

 

つまり、親しげに話している人が不意に真顔になってつまらなそうに見えたとき。あるいは一瞬顔を背けて顔を歪めたとき。あるいは不意に私から目線を外して遠くを見ながら何かを探すように目を動かしているとき。

 

そういうとき「この人、俺と話してるの退屈なんだろうな」とか「他の人が来るの待ってんだろうな」とか考えてしまい、もうそうなったらその先はアウトなのである。

 

なんなんだろうね、このマイナス思考。

ちなみに今の奥さんとはちゃんと目を見て話せるんですが、なんでかなーと思うと多分言葉と表情がリンクしている人だからかなーと思います。逆に言うと感情が顔に出るので、安心して喋れるというか。

 

なのでまあ、私はそういう人に会えてよかったんだと思って生きてます。

じゃなかったら今頃一人でどうなってたことか。

子供はバカでもいいので人の目を見てしっかりしゃべれる人に育ってほしいと思ってます。

kurorekishi

今も続いているようなものですが、昔から何かやりたいと思って

とりあえず何か始めてはほっぽり出すということを繰り返してます。

 

思い返しても謎なのは、小学校二年生のときに

「こわい写真を撮りたい!」

と思い立ち、母親に頼んで当時はまだ一般的だった使い捨てカメラを買ってもらって

地元の街の「こわそうなところスポット」を母親と二人で散策しながら写真を撮る、という行為です。

 

散策と写真。

 

ここだけ聞くとまるで老人のようですが、小学校二年生のときに私が熱心に行っていた活動です。

 

とはいえ小学校二年生の考えることですから

「なんかこの路地裏が暗くてこわい」

「なんかあの家は古くてこわい」

とかそんな思考で24枚撮りのカメラを残量気にしながらパシャパシャ撮ってた訳です。

 

一日そんなものにつきあわされる上にこのあと何が写ってるんだかわからない、そして何の使い道も将来的になさそうな写真の現像代まで出さなければならなかった当時の母親の心境を考えると、不意に胸が張り裂けそうにはなりますが、今自分が父親になってみると、子供が「やりたい!」と言ったことは確かに全力で協力するだろうなあとは思うので、私も息子が「こわい写真を撮りたい」と言い出したら、すかさず24枚撮りの使い捨てカメラを差し出せる親父でありたいと強く思うのです。