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もうだめかもしれない。

大丈夫ですかと聞かれたら、はい大丈夫ですと言うタイプの人間です。

国語が苦手

僕は絵に描いたような文系だったので、大学は私立の文学部だった。

 

国語と英語と日本史の三教科だけ勉強すればなんとかなる、というやつだ。

勉強はそれほどできなくなくても、3つくらいならなんとかできるだろう、というくらいの認識だった。

結果的に3つだけでもロクにできなかったのだけど。

 

最大の誤算だったのは、自分が国語が得意だと思い込んでいることだった。

 

特に古文や漢文は特別に勉強が必要だとわかっていたが、現代文を後回しにしたのが痛かった。

本を読むのは好きだったし、文章を書くのも好きだったので、正直なところ

「受験のための勉強なんてしなくてもなんとかなるでしょ」

くらいに思っていた。

だいぶあとになって受験用の国語の試験問題をやりはじめたときに愕然とした。

 

全然正解しないのだ。

というか、読んで意味がわかっていても、聞かれていることが理解できなかった。

理解できない、というのは正確ではないな。

「こういうことだな」

と思って回答を選ぶと、全然違う。

解説を読むと、自分の理解と全く異なる解釈が書かれている。

何度読んでも正解の解釈がわからない。

 

「いやいや。だって書いた人の意図はこういうところなんじゃないの?俺はこう思うんだけど」

 

ここが最大の間違いであることに、結局気がついたことには遅かった。

人並みに勉強した英語と日本史は平均程度に得点できるようになったものの、国語が最後まで致命的にダメで、センター試験も志望校も軒並みダメだった。

 

受験の国語にとって

「お前がどう感じたかなんか関係ない」

という最も大事なところが、最後まで僕には理解できなかったのだ。

 

高校時代、僕の読書感想文を気に入ってくれていた担任の国語教師に現代文の試験を僕に返す際

「私やあなたのように小説を読むのが好きな人は、自分の感じたことや、思ったことがぐわっと湧き上がってきて感じたままに書く、というのが一番なんだけど、受験用の国語というのは難しいよね」

というような趣旨のことを言われたことがある。

 

そのときは「はあ」とか「ええ」とか曖昧に返事をして終わらせたけど、先生はきっと僕が受験国語と自分の感じることをそのまま書くことは違うという部分になかなか折り合いがつけられないことを案じていたんだろうとだいぶあとになってわかった。

 

高校時代の仲の良かった友人で、ずば抜けて国語のできるやつがいて、特に現代文がとんでもなくできていた。その他の教科で度々赤点を取って補習を受けたりするようなやつだったが、国語の成績が他の教科を牽引して受験でも結果を出せていたほどだ。

 

今にして思うと、彼はきちんと筋道を立てて物事を話したり、考えたりするのがうまいやつだった。理路整然としている、というのはこういうことを言うんだろうと思った。

 

今でもそうなのだけど、仕事というのは基本的に他者に何かを説明することの連続で、伝わらない限りは何も進まない。

僕は考えたことをなんとか伝えようとするのだけど、どうしても主語が抜けていきなりディテールから始めたり、大事でない詳細を細かく話したりしてしまう。

相手のぽかんとして顔に焦って頭に戻ってまた繰り返したり、話が長くなってまた焦ったりの繰り返しだ。自分のブログを読み返して文章でも同じだな、と思う。冗長だし、回りくどい。

 

話すのが上手な人は頭がすっきり整理されていて、同じことを聞いても、僕と抑えるポイント自体が違うんだな、といつも思う。

頭が整理されている人と話していると、時々泣きそうになることがある。

理由ははっきり言葉にしにくいのだけど、ああ、そういう理解をすればよかったんだ、ということに感動していることがある。あと、こうやって考えればよかったんだ、と悩んでいたことの正解をもらえた気がしてほっとして泣きそうになることもある。

僕はそれくらい、いつも言葉に振り回されている。

 

話す方法とかプレゼンの技術とか、それなりにビジネス本みたいなものを買ってなんとかしようとしたこともあったが、もうやめた。

結局テクニックとして得ても、根本は変わらないし、きっと変えたくないんだと思う。

自分がこう思ったからここから伝えたいと思うことは、僕自身が変えようとしていないだけだ。

 

伝えたいと思っているのか、伝わらなくても自分自身が伝えようとしたことで満足しているのかは微妙なところだけど、伝わる人には伝わるんじゃないかと思っている。