もうだめかもしれない。

大丈夫ですかと聞かれたら、はい大丈夫ですと言うタイプの人間です。

おかあちゃんとは何かという話

こんにちは、hanadekameganetです。


どこの家族、夫婦の間でもそうだと思うのですけど


僕と妻の間では昔から自分たちの間でしかニュアンスが伝わらないワードというのがいくつか存在してまして


その中の一つに「おかあちゃん」というのがあります。


意味としては「母親」なんですけども、ただ母親という役割の意味合いだけでは無く、もっといくつかの意味を含んだ言葉として使用しています。



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あえて言葉にするのであれば


「きっぷがよく、豪快で快活」な感じであり


そしてなんと無く「子沢山」で「庶民的で親しみやすく」さらには「ちょっと抜けている」とか「機械に弱い」とか「天然」といった僕らなりの


「愛すべきキャラクター」的要素が付与されていき


諸々含めた上での母親像が「おかあちゃん」となっているわけです。


話していくうちに、要は僕と妻の実際の母親の特徴が投影されているだけだと気がついたんですけども。


で、先日妻と話をしているときに妻が


「私、ブログにずっとお金払い続けちゃってるんだよね。やめようかな」


と言い出したのです。


僕は妻がブログをやっているということも聞いたことがなかったですし、しかもきちんと有料版のブログをやっているなんて二重の驚きでした。


ちなみに僕はブログを書いていることを最初から妻には伝えていますので、それを当然知ってながら僕には言っていなかったことになります。


「ブログやってたの!?初めて聞いた。いつからやってんの?」


「2年くらい前かな」


2年前といえば僕が始めた頃より前です。先輩じゃないの。


「いや、手芸始めたときにそういう作品みたいの載せたりしようかな、とかちょっと気合入れてたんだけど、なんかめんどくさくて」


初耳でしたが気持ちはわからないのでもありません。


それにしても2年も全然書いていないブログの為にお金を払い続けるのもなんだかおかしな話です。


「一度やめれば?落ち着いてからまた再開すればいいじゃん」


というと


「いや、辞め方がわからない」


ええ?


始めた方はわかるのに?辞め方がわからない??


入り口はわかったけど出口がわからない的な?


「そんなことある?」


「なんか、複雑で。よくわかんない。だからまあいいかなって」


まあいいかなじゃないでしょう。


という話をしていて思い出したのが、自分の母親のことでした。


だいぶ前ですが、デジカメを実家で買ったので使い方を教えて欲しいと言われ、教えてあげたことがありました。


とはいえそんなに難しいものでもないので電源ボタンや、シャッターや写真の見方くらいを教えただけだったんですが、まあわかるだろうと思っていたら


「すぐに写真が撮れなくなっちゃってさ。あんた、ちょっと見てみてよ。壊れちゃったかもしれない」


などと切迫した声で電話をかけてきたので見に行ったところ


そもそもSDカードが入っていないという「そこ?」というのが原因だったりしました。


そう、「おかあちゃん」は「機械に弱い」のです。


「まあ、そのうちブログも書き始めるかもしれないし」とどこまで本気なのかわからないトーンで話す妻。


妻も確実に「おかあちゃん」に近づいてきているようです。


僕らが新しいものに対して「わからない」と降参してしまうのは、いつ頃からなんでしょう…