もうだめかもしれない。

大丈夫ですかと聞かれたら、はい大丈夫ですと言うタイプの人間です。

遠慮させてくれ

遠慮するなと人は言うが、遠慮する。

僕はいくらでも遠慮しておきたい。
遠慮するのは楽なのだ。
図々しいことの方が難しいし、大変だ。
第一疲れる。

日本人なので遠慮しておくと
「あの人は謙虚でいい人だ」
「身のほどをわきまえている」
などの好印象を持たれやすいのもありがたい。

なんのことはなくて、要は「面倒臭い」だけなのだ。

だって例えば何かを勧められたとき。
基本的に人から勧められたものというのはほぼ興味なんか持てないのだが、直接その場でぴしゃりと言えるくらいなら
毎日こんなに苦労しない。

そこで
「いや、大丈夫です」
「もったいないんで」
「とんでもない」
と遠慮しておく。

これで話題を曖昧にして終わらせてしまえば相手にそれほど失礼ではないまま会話を終了させられる。

遠慮は実に便利だ。
もういくらでも遠慮しておきたい。
なんでもかんでも「大丈夫です」と言っておきたい。

褒められたときとかも同様だ。

世の中の人は褒められたときにどう反応しているのだろう。
そもそも大人になると褒められること自体減ってくるから人が褒められている場というもの自体に立ち会わないのだが
仕事の場でも、まあ要は予算達成であるとかそういった目に見えた評価というものを受ける人というのはいて、
そういう時は形式的にはよくやったねエライエライと会社は社員を褒めるわけだ。
そういう場にいる人のことを僕はじっと見ている。
どうやって喜ぶのか知りたいからだ。

だけど、大人は喜ばない。
全然表情も変えないしなんなら不機嫌なのかってくらいだ。
大人というのは喜ばない。

だからこその遠慮である。
この場合は謙遜と呼ぼうか。
僕も数少ない機会だが褒められることがあり、そういうときはもう逆に迷惑なんですけどくらいの勢いで謙遜している。
誰も俺を褒めてくれるな、と言わんばかりだ。
これほど日々誰かに褒めて欲しい、褒めて褒めてと渇望している自分がだ。なんなんだよお前。

これも要は何かやらかしたときに
「いい気になってるからだよ」
と言われたくないがための予防線である。
僕は常に自分が失敗するときのことを考えている。
挑戦をせずにリスクマネジメントだけに神経を尖らせている。

駅のホームで朝のラッシュ時もエスカレーターに乗る時に行列に並ぶのを遠慮してまごまごする。
社会人生活10年目になるが、未だに慣れない。慣れないまま定年になるかもしれない。
このままだと定年も遠慮して働き続けてしまいそうだ。

主張することがますます大事な世の中になるのだろうな、と思う。
そんなとき遠慮しつづける僕みたいな人間は逆に貴重になる、なればいいな。
いや、目立つから遠慮しておきます。