もうだめかもしれない。

大丈夫ですかと聞かれたら、はい大丈夫ですと言うタイプの人間です。

ワープロ

やらなきゃいけない、とわかっていたのになんとなく気が進まなくてそのままにしていたことをやったときは気持ちがいい。小さなことでも、どうでもいいことでも、それは等しく効果がある。俺なんかこの間「届いたDMのクーポンコードを登録する」という作業をしただけでもめちゃくちゃスッキリしたからね。まあ俺はそもそも神経症的なのでそういう部分が余計にあるのかもしれないけど、「溜まっているどうでもいいことをやり倒す日」というのは定期的に作ると精神衛生上健全だ。例えば通帳記帳をする。大抵俺は通帳が繰り越されるので2冊目が発行されるのを待つ。ういーんういーんだっこんだっこんと印字されているのをぼーっと見ていると昔ワープロを使って文字を印刷していたことを思い出す。俺は小学校6年生の時にためていたこづかいを使って29,800円のワープロを近所のジャスコの家電売り場で買った。文字入力しかできないワープロなんて当時でも相当時代遅れになりつつあったけど、小学生の俺はとにかく自分の打った文字を自筆以外の文字、活字にしたくて仕方がなかった。親にこづかいをもらっては近所の文房具屋に言ってコクヨの400字詰原稿用紙を買ってきて、そこに使い捨てのペンでちまちま小説もどきを書いていた。俺にとってはそれが遊びで、自分が唯一夢中になれる趣味だった。3万程度とはいえ小学生には大金で、そんな大金を自分のために使うなんてはじめてだったのですげー興奮した。そのワープロを使って俺はいろんな文字を打った。本体の後ろ側にA4の用紙を突っ込んで印刷できたので書いた文字を何度も推敲してはひたすら印刷した。文字を打つ時間よりも印刷する時間の方が長かった。とにかく印刷に時間がかかった。音も大きく、インクリボンはすぐ切れるので母親に文句を言われながら何度もインクリボン代をもらっては買いに行った。それでも自分の打った文章が活字になるのが嬉しくて俺はひたすらワープロに文字を打った。今俺はいくらでもこうして文字を打ち、インターネット上に表示させることができるし、あの頃の数倍の速さで数倍の文字量を印刷することもできるし、ウェブ上のサービスを使えば自分の文章が印刷された書籍さえ印刷・製本して手元に届けることすらできる。俺が今頃文章で生計を立てているような人間になっていたのであれば、小学生の頃自分のために買ったあのワープロが今の俺につながっているのだ、とかなるのだろうけど、あのワープロは特に今の俺に特に何かつながっているわけでもなく、大学に入る頃にパソコンを手に入れるとすっかり用済みになっていつ手放したかも覚えていないほどだ。捨てた記憶がない。あのワープロ、いつ捨てたんだろう。