もうだめかもしれない。

大丈夫ですかと聞かれたら、はい大丈夫ですと言うタイプの人間です。

ありがとう、と小さな声で言った。

個人的にちょっと色々と感じるところがあり、参っていた。

毎日不安感や焦燥感が増していき、通勤途中の電車で叫び出したくなる衝動に駆られることが増えた。

仕事であったり、健康面のことであったり、家庭のこと、将来のこと。
30代くらいになれば誰でも直面するであろう、手垢にまみれた「人生の諸問題」で少しずつ悩んでいたものが積み重なり、ごまかしながらやってきたものの、それら積み重なったもの一つ一つがかちこちに凝り固まって、いつの間にか自分でも驚くほどに硬くしぶといしこりのように成長していたのだと思う。

電車に乗っている時の不安感が日に日に増していき、叫びだしたい衝動に駆られることが出てきた。先日は実際に耐えきれずに途中下車してしまった。動悸が激しく、汗をびっしょりとかいていた。何に対する怒りかわからないが、苛立ちを抑えきれずに駅のホームを舌打ちをしながら歩き回っていた。

駅から家までの帰り道も人をうまくよけて歩けずに足取りがふらふらし、カッとなって家まで走って帰った。自分の身体が、荷物がすれ違う人にぶつかってしまうことがわかっていても、足を止めることが出来なかった。一刻も早く家に逃げ込みたかった。
家に着くなり抑えきれずに持っていた鞄を力一杯放り投げ、叫んでしまった。
抑えきれなかった。
ちょうどそのとき、風呂から出たところだった子供たちが玄関から聞こえてきた物音に何かを感じたらしく、すぐに集まってきた。

「パパ、何あーって言ってたの?」
「どうしたの?」

不思議そうに尋ねてくる子供たちの様子に、頭に上った血がすーっと下がっていくのを感じた。
何をやってるんだ俺は。
妻には愚痴や弱音を聞いてきてもらっていたが、子供の前だけではそうしたくない。
ずっとそう思っていたのに。なのに、俺は。

恥ずかしくて子供たちの顔をきちんと見れなかった。

「大丈夫?」
「大丈夫?」

子供たちを心配させてしまった。
まだ、ほんの5歳と3歳の子供たちに。
自分の情けなさと不甲斐なさにショックが大きくて顔を上げられない。
恥ずかしさに頰が紅潮しているのが自分でもよくわかる。

子供たちに自分はどんな風に見えているんだろう。
失望されてしまうのではないか。
「パパ」はこんな人間だったのだと思われてしまうのではないか。

しかし、子供たち、特に長男はいつも以上に近い距離を取って、僕の腕を取りながら

「今日ね、幼稚園で…」

と幼稚園であった出来事を話し始めた。
いつも以上に表情が豊かで、声が大きい。
兄の話にまるで合いの手を入れるように娘も「そうなんだよ!」とか「すごいでしょう!」などと言っている。まるで林家ペーパー夫妻のようだった。まくしたてるように一方的に話し続ける子供たちの様子にしばらく呆然としてしまったのだが、ふと気がついた。

元気付けようとしてくれているのだ。
僕を笑わせようとしてくれているのだ。

どう考えたって様子がおかしい父親を相手に、怖がられたり泣かれたりしてもおかしくない状況の中で、彼らは僕のことを笑わせようとしてくれている。

必死になって喋り続ける二人のことがおかしくて、僕の頰が緩んだ。
それを見て、息子の表情がようやく柔らかくなり、娘が笑った。

「ありがとう。大丈夫だよ」
とやっとの思いで言った。心の中で、ごめんね、と付け加えた。

子供たちが寝たあと、妻と話をした。
僕がだらだらと零すどうしようもない愚痴も、妻は聞いてくれた。
話をしていく中で自分は自己肯定感が薄いのかも知れない、という話をした。
何をやっても自信を持てないし、いつまで経っても自分を好きになれない。
謙遜と卑下は違うとわかっていても、結局自己卑下をやめることが出来ない。

すると妻は言った。

「あなたは子供たちをいつでも褒めてくれる。
長男が変なことをやっていてもすごいね、と言ってくれる。
子供たちはいつもそのことを言ってる。パパにすごいって言ってもらえたって。
この間本を読み聞かせしてくれたときも、間違ったことを娘が言ってても、優しくそのことを否定しないで別の考え方を教えてあげてた。
それはあなたのいいところだと私は思ってる」

「私は本当にいつも幸せだと思ってる。
私が好きでやってる手芸も、あなたがすごいね、上手だねって言ってくれるから続けてる。もしあなたが何これ変なの、とか言う人だったらとっくにやめてたかもしれない。今まで私が好きになったものをあなたはいつも一緒になって面白がってくれた。
それは本当に幸せなことだと思う。私はそれがあなたのいいところだと思う」

今までそんな風に妻に言われたことがなかったので、僕は言葉に詰まった。
嬉しかった。
誰かにそんな風に言って欲しかったのだ、と思った。

「いつもそう思ってるけど、しょっちゅう言うと軽くなると思って」

と妻は続けた。
僕は我慢しよう我慢しようと思ったけど、やっぱり我慢できなくて、それでも恥ずかしいから、指で目を擦って誤魔化した。全然誤魔化せていなかったけど。

どこかで自分がこの家族を支えているのだ、と勝手に思い上がっていたところがあったと思う。
何のことはなくて、誰より僕が家族に支えられていて、家族無しでは困難に耐えることすら出来ないのだ。

「泣いてるの?」

と意地悪そうに聞いてくる妻に、冗談の一つも返したかったが、何も思い浮かばずに「ありがとう」と小さな声で言った。