もうだめかもしれない。

大丈夫ですかと聞かれたら、はい大丈夫ですと言うタイプの人間です。

「母です。最高傑作が撮れました。」

電車で向かいの席に座った女の子が持つバカデカいバッグには英語で学校名とチアリーディングと書いてあってなるほどねと思った。彼女は真顔が笑顔みたいな顔をして楽しそうにスマホに一生懸命に打ち込んでたりして、彼女の隣で窮屈そうにスマホを覗き込んでる腐臭のしそうな汚ねえ中年リーマンにどうか心まで侵食されないでと願うばかり。圧倒的な「正しさ」の具現化みたいな存在を見てしまうと朝陽を浴びたドラキュラみたいに砂になってしまいそうな気分になる。それくらい彼女の「ただただ生きているのが今楽しい」と言わんばかりのあの全身から発せられる強さは俺の心をねじ伏せた。実家の両親に頼まれてインターネットを開通させた。スマホにしたいと言われて携帯ショップに一緒に付き添って行ったりアカウントとかIDとかパスワードとか、今まで彼らの人生の中では無縁だったであろう概念の説明を時間をかけて何度も一生懸命やってきたが、人間興味がないもの覚える気が無いものは何が何でも覚えない。俺は色々諦めて「わからないことがあったらとにかく電話してくれ」と言った。親子の会話が、増えた。子供の頃俺は一人では何も出来ないクソガキで電車に一人で乗ったのも何と大学受験の時だったし、その時は道を間違えるといけないから、と受験校まで親に付き添ってもらって下見をしに行っていた。クレイジーというか過保護というかマザコンと言うかバカというかまあそう言うクソガキだった。そんな俺が両親を引き連れて携帯ショップに行って店員の言うことを噛み砕いて説明し直したりプロバイダの開通やら開通工事の立ち合いやらモデムとルーターの設定やら挙げ句の果てには映画が観たいと言う両親の要望に沿って父親をAmazonプライムの会員にまでしたりと八面六臂の大活躍である。オモチャを手に入れたようにスマホをいじくり回す父親と嬉しそうにテレビの前でプライム会員向けの映画を「なんでも見れちゃうねえ」とリモコンを離さない母親を見て人間は成長するとともに出来ることが増え、老いるとともに出来ないことが増えていくという言葉を思い出した。いつか母が俺の手を引いて通った病院を俺が母の手を引いて訪れる。それは決して悲しいことではない。俺のスマホの待ち受けは今、母がスマホで撮った実家の猫のあくびの写真だ。