もうだめかもしれない。

大丈夫ですかと聞かれたら、はい大丈夫ですと言うタイプの人間です。

打ち込む指の先が温かいのはもう何時間も画面を見つめていたから。

2年前にGUで買った790円のTシャツは総武線の中で窓ガラスに映ると首元が伸びていた。外が暗くなって車内の様子が映し出された真っ黒な窓に映る男は自分の想定より三割増しで老けた中年で隠しきれない疲労が積み重なっていた。自分より一回り年下のバンドの曲を35にもなってYouTubeからclipboxで1円も使わずにダウンロードしては周りから自分の身を守るようにAmazonで買ったクソ安い中華製イヤホンを耳にねじ込んで音量を上げて聞く。近くに立った若い女が俺の方を見てさっと身を交わしこちらにサンドバッグみたいにデカイ鞄を押し付けるようにして位置を変えた。俺は今や電車の中で女にそんな扱いを受ける存在になった。特に年齢関係無く、俺が気が付いていなかっただけであるいは最初からそうだったのかも知れない。下げた視線の先に何年も前に子供と行ったショッピングモールで子供を宥めながらろくに試着もしないで買ったたいしてサイズの合わないアディダスのスタンスミスが黒ずんでいる。どこかで踏んだガムが取れずに爪先にこびり付いている。会社の同僚が履いていた靴を思い出して恥ずかしくなったことを思い出す。どんな街のどんな店で買ったのか、いくらしたのか、それを履いてどこに行ったのか。そんなことを聞くことも出来ず、俺は自分の足元の靴を隠してしまいたかった。まるでゴミのようだった。iPhoneの音量を上げても頭の中から聞こえる声は聞こえたままだ。中吊り広告が炎上して、TwitterのTLにまたいろんな人のいろんな声が流れてくる。朝の電車の中の俺たちは、もはや何にでも怒りたくて仕方がない。ギリギリのところで空気がパンパンに詰まった袋をみんなが握りしめて息を殺して詰めあってるところに針があればたちまち破裂してしまう。善意の顔をして、あるいは感謝の顔をして、時には正義の顔をして、俺たちの日常の中に巧妙に針は仕込まれる。その針に気がついて破裂したのは自己責任だと言わせるために。論点をすり替えて悪意の針は責任を他者へ転嫁して行く。人の良い、その分少しだけこの世界では抜けている人間たちが、自分でも気が付かないうちに罪悪感だけを背負って死んで行く。両親はいつのまにか老いていくし自身の疲労は回復しなくなっていく。自分が手にしていると思っていたものも、手に入れられると思っていたものも、もうとっくに手に入らないとわかっているのに諦めきれない。自分と折り合いをつけられずに足掻いていることを何年も続けて、それでもまだどこかで自分に期待している自分がいる。鏡の中に映る自分の顎に生えた無精髭に白髪が混じる。ほんの数年前のことのようで、もう自分には縁の無い世界になってしまった出来事が対岸でぼんやりと光る。四ツ谷で乗り換える頃にはすっかり乾ききった眼球に映るホームの灯りがしらじらと残酷に映る10時過ぎ、もう目が覚めないでずっと寝てしまいたいと思う夜は一度目ではない。