母の日計画
母の日は、毎年妻が僕の実家の母親にお花を手配してくれている。
正直僕はいつも子供の面倒を見てもらったり、何かと世話になってばかりいる割にはこういう時にうっかり何もしない、
ということがよくある薄情息子なので、フォローしてくれる妻が非常にありがたい。
無事お花も届いたようで、母親からも感謝するメールが僕のところに来た。
だから、というわけではないのだけど妻に母の日の贈り物をすることにした。
もちろん僕にとっては妻だけど、彼女もまた僕らの子供たちにとっては母である。
息子と娘もそろそろ母の日を祝えるようになってきたのではないか、と考えたのだ。
もちろん普通にお祝いしてもよかったのだが、滅多にやらない「じゃじゃーん!実は用意してましたー!」という
俗に言うサプライズをやってみようと思った。たまにはやってみたくなるときもある。
心の中で「母の日計画」と呼ぶことにした。
ありがとう、と小さな声で言った。
個人的にちょっと色々と感じるところがあり、参っていた。
毎日不安感や焦燥感が増していき、通勤途中の電車で叫び出したくなる衝動に駆られることが増えた。
仕事であったり、健康面のことであったり、家庭のこと、将来のこと。
30代くらいになれば誰でも直面するであろう、手垢にまみれた「人生の諸問題」で少しずつ悩んでいたものが積み重なり、ごまかしながらやってきたものの、それら積み重なったもの一つ一つがかちこちに凝り固まって、いつの間にか自分でも驚くほどに硬くしぶといしこりのように成長していたのだと思う。
電車に乗っている時の不安感が日に日に増していき、叫びだしたい衝動に駆られることが出てきた。先日は実際に耐えきれずに途中下車してしまった。動悸が激しく、汗をびっしょりとかいていた。何に対する怒りかわからないが、苛立ちを抑えきれずに駅のホームを舌打ちをしながら歩き回っていた。
駅から家までの帰り道も人をうまくよけて歩けずに足取りがふらふらし、カッとなって家まで走って帰った。自分の身体が、荷物がすれ違う人にぶつかってしまうことがわかっていても、足を止めることが出来なかった。一刻も早く家に逃げ込みたかった。
家に着くなり抑えきれずに持っていた鞄を力一杯放り投げ、叫んでしまった。
抑えきれなかった。
ちょうどそのとき、風呂から出たところだった子供たちが玄関から聞こえてきた物音に何かを感じたらしく、すぐに集まってきた。
「パパ、何あーって言ってたの?」
「どうしたの?」
不思議そうに尋ねてくる子供たちの様子に、頭に上った血がすーっと下がっていくのを感じた。
何をやってるんだ俺は。
妻には愚痴や弱音を聞いてきてもらっていたが、子供の前だけではそうしたくない。
ずっとそう思っていたのに。なのに、俺は。
恥ずかしくて子供たちの顔をきちんと見れなかった。
「大丈夫?」
「大丈夫?」
子供たちを心配させてしまった。
まだ、ほんの5歳と3歳の子供たちに。
自分の情けなさと不甲斐なさにショックが大きくて顔を上げられない。
恥ずかしさに頰が紅潮しているのが自分でもよくわかる。
子供たちに自分はどんな風に見えているんだろう。
失望されてしまうのではないか。
「パパ」はこんな人間だったのだと思われてしまうのではないか。
しかし、子供たち、特に長男はいつも以上に近い距離を取って、僕の腕を取りながら
「今日ね、幼稚園で…」
と幼稚園であった出来事を話し始めた。
いつも以上に表情が豊かで、声が大きい。
兄の話にまるで合いの手を入れるように娘も「そうなんだよ!」とか「すごいでしょう!」などと言っている。まるで林家ペーパー夫妻のようだった。まくしたてるように一方的に話し続ける子供たちの様子にしばらく呆然としてしまったのだが、ふと気がついた。
元気付けようとしてくれているのだ。
僕を笑わせようとしてくれているのだ。
どう考えたって様子がおかしい父親を相手に、怖がられたり泣かれたりしてもおかしくない状況の中で、彼らは僕のことを笑わせようとしてくれている。
必死になって喋り続ける二人のことがおかしくて、僕の頰が緩んだ。
それを見て、息子の表情がようやく柔らかくなり、娘が笑った。
「ありがとう。大丈夫だよ」
とやっとの思いで言った。心の中で、ごめんね、と付け加えた。
子供たちが寝たあと、妻と話をした。
僕がだらだらと零すどうしようもない愚痴も、妻は聞いてくれた。
話をしていく中で自分は自己肯定感が薄いのかも知れない、という話をした。
何をやっても自信を持てないし、いつまで経っても自分を好きになれない。
謙遜と卑下は違うとわかっていても、結局自己卑下をやめることが出来ない。
すると妻は言った。
「あなたは子供たちをいつでも褒めてくれる。
長男が変なことをやっていてもすごいね、と言ってくれる。
子供たちはいつもそのことを言ってる。パパにすごいって言ってもらえたって。
この間本を読み聞かせしてくれたときも、間違ったことを娘が言ってても、優しくそのことを否定しないで別の考え方を教えてあげてた。
それはあなたのいいところだと私は思ってる」
「私は本当にいつも幸せだと思ってる。
私が好きでやってる手芸も、あなたがすごいね、上手だねって言ってくれるから続けてる。もしあなたが何これ変なの、とか言う人だったらとっくにやめてたかもしれない。今まで私が好きになったものをあなたはいつも一緒になって面白がってくれた。
それは本当に幸せなことだと思う。私はそれがあなたのいいところだと思う」
今までそんな風に妻に言われたことがなかったので、僕は言葉に詰まった。
嬉しかった。
誰かにそんな風に言って欲しかったのだ、と思った。
「いつもそう思ってるけど、しょっちゅう言うと軽くなると思って」
と妻は続けた。
僕は我慢しよう我慢しようと思ったけど、やっぱり我慢できなくて、それでも恥ずかしいから、指で目を擦って誤魔化した。全然誤魔化せていなかったけど。
どこかで自分がこの家族を支えているのだ、と勝手に思い上がっていたところがあったと思う。
何のことはなくて、誰より僕が家族に支えられていて、家族無しでは困難に耐えることすら出来ないのだ。
「泣いてるの?」
と意地悪そうに聞いてくる妻に、冗談の一つも返したかったが、何も思い浮かばずに「ありがとう」と小さな声で言った。
娘のファッションセンス
娘が5月で3歳になる。
不思議と2歳年上の息子の時と比べて
もう3歳かあ、というよりは、まだ3歳かあという思いの方が強い気がする。
二人目の特権か、言葉の覚えも息子のときよりも早く、ずいぶん前からきちんと
意思の疎通が図れているという実感もあったし、そういう意味では
「あれ、お前まだ3歳だったの?」という思いがするような気がするのだ。
そんな娘なので、妻に聞くところによれば、最近は着る服を自分で選ぶようにもなってきたらしい。
基本は妻が選んだ服を彼女に着てもらうわけだが、最近は母親のチョイスに気に入らないところがあると
激しく抵抗し、着ないこともあるという。
この辺りはさすが女の子というか、息子にはあんまり見られない現象である。
息子が気にするのはせいぜい素材くらいで「ちくちくするからやだ」程度だ。
ある日仕事中に妻から送られてきたLINEを見ると
「さーちゃんが選んだ服」
と書いてあり、ド派手な格好の娘の画像が添付されていた。
猫耳付きのニットキャップ、
水色のアウター、
水玉模様のオーバーオール、
エナメルの黒い靴、
そして天気が悪い日だったので真っ赤なキティちゃんの傘をさし
彼女お気に入りの刺繍入りポーチを持って闊歩するその様は
「地元にいる、害は無いけど個性的な服装の老婆」そのものであった。
逆にすごいファッションセンスがあるのかもしれない、と子供に関してだけは根拠なくポジティブシンキングの僕は思った。
言うんじゃないよ
こどもは思ったままのことを口に出す。
先日妻が息子を乗せて自転車で走っている時、男性とすれちがいざまに息子が
「あの人、強盗かなあ」
とそこそこ大きい声で妻に言ったという。
なぜそう思ったのも疑問だが、大人であれば仮にもし
「ああ、あの人強盗みたいな格好してるな」
と万が一思っても黙っておくものの、こどもはできない。
「なんで?」である。
「だってそう見えるんだもん」である。
正論とも言える。
なぜ思ったことを口に出してはいけないのか。
言いたいことも言えない世の中なのか。
とすぐにポイズンに走ってしまうのが30代前半の悲しい性である。
実際強盗のような人というのがどういう人だったか気にはなる。
そして、今日である。
家族で近くのイオンへ出かけたわけだが、エレベーターを降りてすぐ、鼻腔にはっきりと異臭を感じた。
エレベーター前の広場にはベンチが設置されており、そこには一人の中年男性が。
断定はできないが、おそらくはその男性の体臭と思しきかぐわしい香りであったが、
妻は花粉症で鼻がきかない状態。
誰も気にしていない様子だったので、傍をそそくさと通り抜けようとしたそのとき。
「くさい」
と2歳の娘が何の前触れもなく急に言い出したのだ。
娘はことにおいに関してはすぐに報告する癖があるらしく、とにかくあらゆるシーンですぐに「くさい」という。
というか、匂いの評価基準が「くさい」と「いいにおい」しかないので、必然的に彼女にとって報告したくなるのは「くさい」ときのようだ。
先日はホットケーキの種を混ぜる妻の横でその様子を見ながら、まだ液体状態でべちょべちょのホットケーキの匂いをくんくんと嗅いでは
「うーん、パンケーキのいいにおいー」
とうっとりして言った直後に「へっぷしっ」と思い切りホットケーキの中にくしゃみをぶちまけていたので、はなはだその嗅覚には疑問はあるが。
一方、「くさい」と言われた僕としては当然焦った。
心の中では「ば、バカヤローッ!」と叫んでいたものの、実際には完全に表情を殺したまま僕は娘の手を引いて普段の3倍くらいのスピードで男性の横を通過した。
幸い男性が気づいた様子はなかったので何気無い振りを装って
ほとんど娘を引きずって歩いてたんじゃ無いかくらいのスピードで通過した。
なおも何か言いたげな娘に「んー?そうかなあ?」などとすっとぼけていながらも「言うんじゃないよ」とよっぽど言ってやりたかった。
名乗り出てほしい
やってしまった。
ホワイトデーなのにお返しを家に忘れてきてしまった。
とはいえもらったのはたったの3個なので大きな影響はないのだけど、やっぱりこういう会社で半ば慣例的に行われているイベントごとでやるべきことをしそびれるというのは感情的にはうしろめたいというか、何か重大な失敗をしてしまった感が強い。
朝会社の入っているビルの玄関前で声に「あ!」って出して立ち止まりましたからね。そこで気づくっていうね。
しょうがないからもらった人となんとなく会いづらくてちょっと意識的に避けてしまいました。こういう時に上手な人はなんか言うんだろうか。
「いやあ、ちょっと忘れちゃって。明日倍にして渡しますよ!」
とかいうと社会人生活って楽しくなるんですか。違いますか、そうですか。
まあしょうがないので明日渡そうとは思っているが、実は3つもらったうちの一個の相手がわからない。
バレンタインの日、いつの間にかデスクの上に置いてあって、名前が書いていないのだ。
どう思いますこれ。わかんないよこれじゃ。なんですか、匿名でランドセルとか送る人的な。タイガーマスク的な。ねずみ小僧的な。あまりに孤独な魂を抱えた男を不憫に思ってチョコレートを分け与えた聖母でしょうか。
ただね、現実問題困るわけ。
こういう人間ですから聞きにくいんですよ、周りの女性に。
「なんか名前の書いてないチョコがあったんだけど、これ置いてくれました?」
とか自分からとてもじゃないけど聞けない。
「はあ?お前にやるわけないだろ」
という感情が顔に出るのを見たくない。
本当にくれる人が思いつかないのだ。
近くの先輩男性社員に聞いてみようと思ったものの、
「俺、それもらってない」
とかなったら、それはそれで気まずいじゃないの。
何、どうしたらいいの。なんなの。なんで匿名でチョコ置くの。ありがたいけどさ。頼むよ、名乗ってよ。
あと関係ないけど、ホワイトデーの日って女の人の普段の交友関係が見えて興味深かった。
あ、この人意外とバレンタインにいろんな人にチョコ配ってたんだなあと思うくらい一日中次から次へと各部の男性がチョコを入れ替わり立ち代り持ってきている女性がいて、デスクの上がお菓子だらけになっていた。
この人とこの人は仲いいんだなーとか。
そう考えるとそこそこ社員数のいる会社でかつ女性の割合が比較的多い部署にいるにも関わらず、奇跡の3個でチョコをストップさせた僕の脅威のディフェンス能力こそ評価してほしいところだ。ストイックに仕事をしてきた結果だと自負している。これは余談だが、今年はついに妻からもチョコをもらえなかった。僕も深く考えてはいなかったが、「あ、忘れてた!」と言われた時の気持ちに、寂しさがなかったと言えば嘘になる。そんな妻は会社から持ち帰った僕のたった3つのチョコを子供たちとともに綺麗に食べきってくれた。
というわけで僕は今送り主が決まっていないチョコを一個持っている。
明日会社に持って行ってどうしようか、今から気が重い。
それ以前に一日遅れでお返しを渡さないといけないことが、気が重い。
とにかく、気が重い。
妻と二人で出かけた
母親から
「たまには夫婦二人で出かけてきたら。子供預かるから」
という申し出を受け、少し不安はありつつも、ありがたく甘えさせてもらうことにした。
今まで何度も実家には子供達を連れて行ってはいるものの、子供達だけを預けるということはしたことがなかったからだ。長男はまだしも、2歳の娘はどうかな…と思っていたが、いざ連れて行ったら僕たちのことは玄関に入るや否や眼中にないようで、靴を脱ぐなり奥の部屋までダッシュで「ねんどやろー!」と走り去っていった。普段我が家では出来ないことがおばあちゃんの家では出来る、ということをよく知っているため、子供達も全力で遊ぶモードになってくれたようだ。
「夕飯食べてからもどってくれればいいから」
というありがたい言葉をもらい、お礼を言いつつ外に出たものの、僕らは結局当日まで「どうやって過ごすか」というところを詰めきれないままでいた。
当初はせっかくだからディズニーランドにでも…なんて話もしていたのだが、混雑状況をネットなどで見て気が引けて、結局近場に映画を見に行くことにした。
次の回までまだ少し時間があったので、食事を先に済ませようと、レストランに入る。
普段だと子供 を連れては少し入りにくい雰囲気のお店なので、久しぶりに入ったなという感覚だった。
食事をするときに、妻と二人でゆっくりとナイフとフォークで食べる、というのも久しぶりだった。普段は使うにしてもまずはいそいそと子供の食べたがる分を切り分けたり、後半飽きた娘が歩き出す前に食べ終えなくてはと味は二の次で口に押し込んだり、そもそも食べるのに時間がかかったり食べにくいメニューやお店は選ばなかったりするので、なんだか変な感じだった。
妻とも二人で「静かだね」と言ってしまったくらいだ。
子供がいないと、必然的に会話は二人のものになる。
二人だけでお昼時から食事をしながら話をする機会は本当に久しぶりで、昔はずっとこうだったんだよなあと感慨深かった。
外を歩いていると、子供連れが目につく。
妻と二人で歩くときの距離感も少し最初はぎこちなくなってしまった。
一つ気がついたことが歩くスピードで、僕もそんなに歩くのは早い方ではないのだけど、どうも妻の歩くスピードでが遅くて、どうしたのかなと思っていたらしばらくして
「だめだ。全然早足で歩けない。多分普段子供のスピードに合わせてるから、その速度になってる」
と言った。
食事を終えて、映画を見たあとに買い物をした。
妻は服を見たい、と言ったので一緒に行ったが、結局自分のものはあまり見ずに、そのあとすぐに子供服を見に行った。
僕も途中のキッズスペースを見て、ここなら遊ばせられるな、と思っていた。
視点がいつの間にか子供を中心に考えるようになっていて、普段は子供のことばっかり考えなきゃいけなくて嫌だな、自分の時間が欲しいな、とか思っているのに、こんな風に考えてしまうものなんだなと思った。
途中で様子を伺うために二度ほど実家に電話をかけた。
問題はないか、と聞くと何かあったらとっくに連絡している、と言われて気が抜けた。「ちょっと待って」と母親が言い、物音がしたかと思うと「ぱぱー?」と長男の声が聞こえてきた。「今日デートしてるの?」とか「楽しい?」とか、ジジババに色々吹き込まれているのか色々と聞いてくる。ちょっと前まで電話になると会話がうまくできなかったのに、だいぶ話せるようになったな、と思っていたら「じゃあばいばい」と言われて今度は長女の声で「もしもしもしもしもしもしー!」と絶叫が聞こえてきた。こっちはもう少し時間がかかるな、と思った。
両親にお礼の気持ちを込めてお土産を買って帰り、もしかして寝てしまってないだろうかと心配しながら帰ると、元気な様子の子供たちと、平然を装っているものの顔に疲労の色を浮かべた両親が出迎えてくれたので、「本当に今日はありがとう」と両親に感謝した。せっかくの休みにゆっくりしたいだろうに、うるさい孫たちを預かると申し出てくれたおかげで、久しぶりに妻と二人で出かける時間が作れた。
帰り道、子供たちは興奮した様子で喋っていて、おじいちゃんおばあちゃんと過ごした一日が相当楽しかった様子だったので、安心した。
子供たちが大きくなって「二人で出かけてくれば」と言い出すようになってから、また妻とこうした時間を過ごすことも多くなるのだろう。
それまでは、時々嫌になりながらも、家族四人で過ごせる時間を過ごしていく。
頭ぽんぽん
昔何かで20歳を過ぎると脳細胞が日々死んでいくのだという話を聞いた。
20歳からもうすぐ13年経ってしまうわけなんだが、ああまあ確かに死んでるなと感じるくらい頭は鈍い。
会議や打ち合わせが長引いてデスクに戻ると30分くらい平気でぼんやりしている。
何もしていないのに、それこそ机の引き出しを開けたり閉じたり、手帳を開いたり閉じたり、必要のないメールの削除をしているだけで余裕で30分経過している。
次の作業に取り掛かるまで、それくらいのアイドルタイムが必要なくらいに体力が長続きしないということである。
体力も落ちてきていて、最近特によく感じるのが通勤だ。
僕の最寄駅は始発の電車があるので基本的には朝座っていけるのだが、ここ最近朝はほぼ100%寝ている。
ちょっと前までこの時間を使って本を読んでいたので、結構な冊数をこなせていたのだが、行き帰りの電車の中で本を読む体力を失ってからというものちっとも読書が進んでいない。今カバンに入れっぱなしにしているのはなんと去年の年末に買った小説である。もう3ヶ月一冊の文庫本にかかってしまっているのだ。前半に関して言うと読み返さないと忘れているところもある気がする。
会社から帰ってきても食事をしたあとはソファに横になって起き上がれない。
横になって何をしているのかといえば、息子のためにダウンロードした
「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ炎のかすかべランナー」
という横スクロール系のゲームアプリである。不毛、という単語が頭をよぎる。ただ、おかげさまでだいぶレベルは上がった。無課金な割には頑張っている方である。
這い上がるようにむっくりと起きて風呂に入って寝る。
これが生活である。日常である。
愛すべきものだと思っているし、なんだかんだ言いつつ僕はこうした毎日が好きなんだけど、このままだと自分の身体の内側にあるものを少しづつすり減らしている感覚もあったので、もう少し自分で自分をコントロールしないといけないな、と思うようになった。
そこで、これじゃいけない、とまた最近ブログを書き始めた。
文章を書くと少し頭が整理出来たり、あとで読み返すと自分がこんなこと考えてたんだ、とか、そんな風に思ってたっけ?と驚くこともあって面白い。
ブログを書く、という目的のためになんとかソファから起き上がれるようにもなった。なんだかリハビリのようだ。
毎日の生活はどうしようもなく同じように続いていて、面白いことも何もなかったりするんだけど、積み重ねられるそれぞれが後で考えると貴重だったんだなということの連続なので、少しでも残しておきたいなと思う。
例えば今日夕飯時に妻と話をしていたら、幼稚園に息子を迎えに行った時の娘の様子を聞けた。
駐輪場で娘が年長さんと思しき男の子に頭をぽんぽんされた上で、ばいばいという感じに手を振られたとのこと。男の子はそのまま去っていったらしく、その自然な扱いに娘は妻に対して「おにいさん、かっこよかったねえ〜」と興奮していたとのこと。
「あたしもちょっときゅんとなっちゃった」
となぜか妻まで少し心動かされていたが、父としては女性の扱いにいかにも慣れたその年上の男の子になんとも複雑な心境である。
という風に、なんでもない毎日に覚えておきたいことが起きたりするから、死にゆく脳細胞を頑張って少しでも生かしておきたいと思うのである。
しりぬぐい
子供が寝てから夜テレビを見ていた時のこと。
ばたんと寝室のドアが開く音がしたかと思うと、バタバタという足音と共に長男が号泣しながら現れた。
「どうした!?」
と問うと
「うんち付いちゃったー!」
と言う。
僕の目の前に右手の親指と人差し指を突き出す。
確かにその指のさきっぽには茶色い物質がこびりついている。
なんで?
という思いは拭えないながらも号泣する息子の背中を押しながら洗面所へ向かう。指を洗わせながら
「もう漏らしちゃった?」と聞くと
「出ちゃったー」
と泣くのでちらっとズボンをめくるとまだ漏らしてはない様子。
息子はいまだにうんちをすんなりしない。
いつも限界まで我慢して漏らすギリギリか、あるいはちょっと漏らす段階に来てからようやくトイレで用を足すということを繰り返している。
今回も我慢した挙句、気になってお尻を触っていたら、もう出始めのうんちを触ってしまったというところのようである。
泣きながら便器に座らせる。
「パパ、いない方がいい?」
「ここにいて!見てて!」
息子は排便時の気分で近くにいて欲しがったり、あっち行ってて、という場合と両方あるので気が抜けない。今回は見ててくれパターンのようだ。
アンパンマンの補助便座の上で泣きながらふんばる長男。
人がうんちする瞬間をこうも間近で見る機会というのは人生でこの先もそうそうないだろう。全身に力を入れてぷるぷると震えながらうんちをする息子。
やがてぽちゃん、という音と共に
「出た…」
という息子の厳かな声。
「2個出た…」
塊が2つ出たという意味である。
「見て…」
毎回そうだが、彼は必ず己の出したものを見ろと要求する。健康管理という意味で子供のうんちをチェックするのはもちろん大事なんだけど、こうやって見るよう要求されるのは複雑だ。便器を覗き込むと、いつも通りの立派なものが横たわっている。
本当にこの小さな体の、さらに小さな腸を抜けて、小さなお尻の穴からどうやって現れたのか、といつも不思議なほどのサイズである。流れるかな、と一瞬不安になる程だ。もちろんこの時うっかり流してしまおうものなら、彼はますます激しく泣き叫ぶ。必ず自分でも出したものをチェックし、納得してから自分で流すところまでがワンセット。
ここまで来てももう一仕事残っている。
彼は当たり前のようにおしりをこちらへ突き出してくる。
ちょうど立った状態で足を肩幅に開いて前屈をしているような姿勢である。
これはもちろん「おしりを拭け」のポーズである。
ウエットティッシュで彼のお尻の穴を拭う。
あれだけ大きなうんちがよくもまあこの小さなお尻の穴から出てきたなあ、と感慨深く思いながら拭く。
「いててっ」
と痛がる息子。注文が多い。それでもこんなことを言う。
「どうしてパパはママみたいにグリグリ拭かないの?」
図らずも妻が強めにおしりを拭いていることを知る。
「だって…痛いんでしょ?」
「そうだけど…」
成り立っていそうで、成り立っていないやりとりである。
もしかして、強く拭いてほしいのかしら?と思うも、いや、そもそも自分で拭けるようにならんかいと思い直す。
おしりが綺麗になった息子は先ほどまで指先にうんちを付けて泣き叫んでいたことなども忘れて「パパ、牛乳飲みたい」などと言っている。
「はいはい」と言って息子の手を引き、台所へ向かう。
将来生意気なことを言い出したら
「誰がおまえのケツの穴拭いてやったと思ってるんだ!」
と言ってやる。尻拭いをする、とよく例えで使われるが、本当に尻を拭っているので、それくらいは許されたい。
ベッドの上でなんか食ったろ
ベッドの上が危ない状況にある。
子供達がおもちゃを寝る前に持ち込むからだ。
長男は主にトミカを、長女はぬいぐるみなどの人形を持ち込んでいる。
一応妻の方でも一個だけ、と決めるよう言ってくれているのだが、前日やそのさらに前の持ち込み分なども加算されているため、いつのまにか寝室はちょっとしたプレイスペースとなっている。
会社から帰ってきて寝ようとすると、暗闇の中恐る恐る進む僕の足の裏にトミカが食い込む。
思わず上げそうになる声を抑えて長女と長男が折り重なるように占領しているベッドにゆっくりと膝を着いて上がる。
膝に硬いものが当たり、「いてっ」と言いたい気持ちを無理矢理抑えて拾い上げるとそれはマクドナルドのハッピーセットのマリオである。1アップキノコじゃなくてよかった。あれだとピロリロリロンと音がしていた可能性もある。
なんとかベッドの端まで行き、枕を探す。無い。
本来僕の枕があるべき場所には息子のトイストーリーの枕がある。暗闇の中手探りで探す。やっとつかんだそれは、娘のために買った、ディズニープリンセスのものである。おかしいな、と仕方なくスマホの画面をつけて探すと息子が僕の枕を使って寝てている。
何のために枕を買ってやったんだ!とやや乱暴に枕を引き抜き、その頭の下にトイストーリーをすり替えて入れてやる。
なんかじゃりじゃりする。
こいつら、ここで何かお菓子食ったな。なんだろう、硬い。じゃがりこ?
体をわずかな隙間にねじ込み、暑がりで寝相の悪い子供達が弾き飛ばした掛け布団を引き上げ、天井を見上げる。
「あれから 僕たちは 何かを信じてこれたかな」
「あの頃の未来に 僕らは立っているのかな」
「このままどこまでも 日々は続いていくのかな」
思い返せば疑問ばかりの歌である。それに対するアンサーはこの一節のみだ。
「夜空の向こうには もう明日が待っている」
カーテンをめくって外を覗く。
時刻は午前2時。窓の向こうには賃貸マンションの薄暗い共同廊下と駐輪場が蛍光灯に照らされて、不健康そうにじっとこちらを見返しているだけだ。
それでも明日は待っている。明日も平日。仕事が僕を待っている。
GOOD NIGHT