もうだめかもしれない。

大丈夫ですかと聞かれたら、はい大丈夫ですと言うタイプの人間です。

唾棄しめる

インターホンを押しても強く拳でノックしても応答はなく、ヘルパーの中年男性は「私は次があるので、あとで連絡します」と言いながらその場を離れた。その途中で息子が欲しいと言うのでトイザらスで買ったのに、結局一度しか使わないまま放置されていたホッピングが彼の脚に当たって倒れ、誰もいないマンションの共用廊下に馬鹿でかい金属音が響き渡った。彼は「すみません、すみません」と言いながら階段の方向へ向かっていったが声をかける人間はいなかった。大家である両親に代わって合鍵を手にして俺は声をかけながらドアを開けた。「開けますよ。すみません、いますか?入りますよ」部屋の中は暗く、他人の生活の匂いがあった。「大丈夫ですか?」声をかけながら俺は進む。奥の部屋が寝室だ。ベッドの上に横たわる人がいる。腕に触れると既に冷たくなっている。今朝の話だ。救急車を呼び、駆けつけた消防隊員に話をし、警察に話をし、両親に話をした。最後に話をしたのは日曜日の夕方だった。俺がまだ子供だった頃、彼女は隣に越してきた。20年以上は住んでいたと思う。その途中で一緒に暮らしていた男性を亡くし、身体を悪くし、訪問介護を受けたりしながらも一人で暮らしていた。毎日大声で喚き走り回る子供達が鬱陶しかっただろうに、玄関先で顔を合わせた際謝罪する俺に向かって「元気でいいわ。子供のことはね、絶対に怒っちゃ駄目。子供はね、怒っちゃ駄目」と繰り返し言った。脚を悪くしていたが俺たち夫婦に「もし何かあったら子供をしばらく預けてくれてもいいんだから」と言ってくれた。「だから、私に何かあったらよろしくね」と続けた。「私、隣に誰もいないの怖かったの。だから、賑やかになってくれるといいわ」煙草をよく吸う人だった。お酒も好きだった。顔を上げるとフロアには俺しかいなかった。事務所の電気を消し、鍵を閉めた。ビルの共有の鍵の管理ボックスに社員証を通しながら朝隣の部屋の鍵を開けて、今日最後に会社の鍵を閉めたのも俺だったな、と思った。夜会社から帰ると妻が警察と電話していた。引き取る身内がいないと言う。区が荼毘に付すだろうという報告だった。遺品は管理会社との話し合いで整理をするのだという。生きていると腹が減る。夕飯は豚肉ときのこの炒め物だった。「チビちゃんの方はお兄ちゃんに似てるよね。上の子はお母さんに似てるのかな」最後に会ったとき子供たちのことをそう言っていた。娘の顔は死んだ父方の祖母によく似ていて俺の父親はその祖母によく似ている。俺の顔も父親に似てくるのだろうか。俺たちは死んだり生まれたり繰り返してるだけだ。