もうだめかもしれない。

大丈夫ですかと聞かれたら、はい大丈夫ですと言うタイプの人間です。

有吉

俺は有吉弘行が好きなのだけど、世間的にも好きな人は多いのだろうか。
あれだけ多くの番組を持っていて、かつ長く続いているのを見るに好感度が高いのだとは思う。

彼が10年近く前に復活してきたとき、彼は完全に旧来勢力へのカウンターとしての存在だった。
毒舌という言葉で語られることが多かったが、その一言に集約仕切れない鋭い批評性や、本質を一言で端的に突く聡明さに俺は面白いという感情以上のものを抱くようになった。

ラジオを聞き、本を買い、テレビを見た。
語られる言葉や彼の視点にいちいちかぶれるようになった。

しばらくして気がついたのだけど、そうか、「信者」というのはこの状態を指すのだ。
俺は相当盲目的に有吉を信奉し始めていて、彼が良しとしたものはよい、彼が悪としたものは悪いと思い込む状態になっていたように思う。

もちろん俺の有吉好きを誰かに熱く語ったことはないので、直接的な何かが発生したわけではないのだけど、一時期俺が家庭や会社で話す話題や話し方はだいぶ当時の有吉をトレースしていたと思う。
素人が彼の立ち振る舞いを形だけなぞって真似るのは非常に危険だ。それでうまく行く場面も時にはあると思う。だが、それとて自分自身が気持ちよくなっているだけで、周りの人間がどう感じているかはまた別の話だ。素人がプロの芸人の猿真似をして日常生活でいいことなど一つもない。そんなことは学生時代の合コンの場までに終わらせなければいけないのだ。

はたと気がつき、恥ずかしくなった。
熱に浮かされるように有吉を演じていた自分を恥じた。
同時に、信者になることの怖さと、人を惹きつける魅力のある人間がどれだけ注意深く自分の発言を考えているかということを考えるようになった。
彼が世論を先導することもきっとできる。それでも彼をよくみている人ほどわかると思うのだけど、有吉は決して否定的な意見を発さない。ほとんどは肯定的な意見であり、彼が怒りや疑問を投げかける場合もあるが、それとて自分を絶対的な正義と定義してのものではない。自分の影響力を自覚しているからこそだ。

ここ最近MCとしての仕事が増え、彼自身のパーソナリティが発揮される場はラジオがメインになっているが、そのほとんどが下ネタに費やされる空間の中でも時折彼の言葉が鋭く刺さる瞬間が存在する。
リスナーに時に優しく寄り添い時に厳しく突き放す緩急と、どの程度彼が勉強した上で意識的に発言しているのかわからないが、昨今重要視される多様性への視点、思考などへの理解や、常に「今」多くの人が見ているものを知ろうとする姿勢や視野に、これほど有名になり、地位を得ても未だ勉強を続けようとしているのだと感じ、ますます好きになった。

ラジオでかつてどこまで真実かわからないながら、かなり悲惨な目にあったリスナーからのメールを読み終えた有吉が、少し間を空けた後(恐らく罵倒する笑いの方向に持っていくか一瞬の間に判断したのだと思うけど)「立派だよ、立派」とリスナーの健闘を称えたことがあり、それはラジオの中ではあまりなかったことだから、俺はとても印象的に覚えている。
それは、かつて元気が出るテレビのなかで、東大合格を目指す企画で受験に失敗した学生に対し、彼をいじることなく、静かに肩を抱いて寄り添い、一緒に涙を流した高田純次の姿にどこか似ているともいえなくはないだろうか。いえないか。

という、ただ有吉が好きという話。