もうだめかもしれない。

大丈夫ですかと聞かれたら、はい大丈夫ですと言うタイプの人間です。

令和3年の夏が過ぎていく

俺が嫌いな奴はいつまでも元気で全く人生にダメージを受けずに生き続け
俺の好きな人や快く思っている人、そして仲良くしている人や頑張ってほしいと思っている人ほど
気持ちいいくらい皆心を病んで家から出れなくなってしまったり死んでしまったり病気になってすっかり生きていくのに疲れてしまったり。
ここ数年続いているのはそんなことばかり。

俺が疫病神なんじゃないかって本気で時々思う。
そんな自分自身もここ最近仕事や家庭のことでごちゃごちゃと思い悩む回数が増えてちょっと体調にうも影響してきているので上司や同僚にも相談したり。

でも結局自分がそこで深い相談ができるような人間関係を職場で構築していなかったからいけないんだが、こういう本気で誰かに吐露するというレベルの思い悩んでいる内容を伝えても、表面上の仕事でしか関係を持っていない人というのは全然こうした悩みを吐いても響かないというか、なんならすげえ引くんだなってことが今回よくわかった。

自分に置き換えて考えれば確かにまあそりゃそうだよな、とも思う。
単なる一同僚から重めなメンタル相談されても、こっちも仕事外のところで給料も発生しないし、
お前の担当の精神科医でもねえし、ってなるわな。
勝手にカンセリングでも心療内科でも自費で行って治してこいよ、はい次。ってな感じで。
それだけ俺たちは他人に対しても自分の時間なんか割く余裕も時間もないってことなんだよな。
ただでさえそんなところに来てコロナで何もかも狂わされるようになってもいう2年目。1年半以上イレギュラーな生活をさせられて、もう去年の3月より前、自分がどんな世界でどんなことを思って暮らしていたのかも忘れかけている。

今も治療と経過観察を続けている足の怪我を負ったときもそうだった。
上司は心配そうな顔をしたが、この人は誰に対しても簡単に心配そうな顔をできる人だということがそのあとだんだんわかってきて馬鹿らしくなってしまった。重く捉えることの方が馬鹿らしい。
職場の人間とはその程度の関係性で構わないのに長いこと俺は勘違いをしていた。

ここ最近何もかも面倒で今日は1日寝たり起きたりを繰り返していただけだ。
子供にも怒鳴ってばかり。
やりたいことがたくさんある気がするけど、結局何も進めることができず、寝転がってスマホをいじっているだけ。
外に雨が降っているだけで何もする気がしなくなってしまう。
Amazonであの本も読みたいこの本も読みたいとポチって届いた本が重なっているのにどの本も少しずつ読んでは止まっているから前半にしおりが挟まったままの本が何冊も溜まっている。
何もかも進んでおらず、思考が散らばってあちこちで立ち往生したまま放置されている。
あれもやらなきゃこれもやらなきゃと焦燥感ばかりが募りそれでも時間ができても何もできずにただ横になってスマホをいじり続けている。

世の中をうまく、ずるく生きていく人間たちがいて、
そうした人間たちは周りから非難されようが全く気にしていない。
彼らにはそうした言葉は本心から絶対に響かないからだ。
きっとそうやって都合の悪いところが見えないまま、
気が付かないまま、勘違いしたまま、本当に彼らは自分たちの都合の良いところだけを
気持ちの良い過ごしやすいところを見つけて狡猾に生き抜いていく。
そうした才能や運にだけは恵まれている人間だけが、そのポジションにつくことができるのだ。

今日もそいつらは居心地の良い特等席で、周りの人間の視線も言葉も響かないほど分厚い壁の中で、都合の良い言葉だけが聞こえるフィルター付きのヘッドフォンをかけ、
不都合な内容がカットされるサングラスをかけて、誰かの苦労や努力や不幸の上に成り立つ恩恵を受け取って暮らしている。

そんな事実を避けずに直視せざるを得ない俺は、今日も生きるのだけで精一杯だった。
ソファに転がりスマホをいじる指先の筋肉と次から次へと映し出される映像を追うため目の筋肉だけが今日の俺の運動量だった。
令和3年の夏が過ぎていく。
疫病と自然災害で死にかけの、いやすでに死んでいる日本が、死体を蹴り上げるようにまだ次から次へと弱りきって横たわる日本が蹴り上げられ続けている音がする。
ソファで死体のように横たわる俺と同じだ。この国に暮らす人。今死にかけでそれでも必死で生きている人が、生きていることに疑問を持ってしまうようなこの国で、この毎日で、それでも生きている全ての人の存在を感じたくて俺は今日の文章を書いた。