もうだめかもしれない。

大丈夫ですかと聞かれたら、はい大丈夫ですと言うタイプの人間です。

みかん

悪いことは重なる。

無理をしても楽しい気分にならない時は、じっと時が過ぎるのを待つしかない。

本当にこういうときは何もいいことがない。

こうして文字を打ち込んでいるパソコンが急に壊れることもありうる。

今のうちにできることだけやっておく。

気持ちに余裕がない時は、それまで気にならなかったこと、
どうでもいいと思っていたことまでもが気に触るようになる。

些末なことで自分がイライラしているとわかった時はもうその状態に入り込んでいる。

そこから抜け出すのは俺の場合、かなり根気と時間がかかることだ。

人生をうまく生きている人間は、この自分の機嫌の取り方や自分の理想の状態との距離に置き方、
折り合いの付け方がうまいのだと思う。

永遠に俺は折り合いをつけることができず、万事OKの状態でないと最大の機嫌を取ることができない。
そんな最上級の状態、人生で何度あるかどうかだし、そんな状態はまず続かない。

長男は親の俺から見ても勉強もたいしてできないし、
スポーツもできず、内気ですぐ泣き、いじめられる対象になりそうなタイプなので
ずっと気になっている。

結局子供を持つようになって感じることは、どうして子供がいることによって疲れたり自分の時間が持てないのかと言うと
乳幼児の頃は物理的にもちろん育児で手が離せないわけだけど、盲目的に面倒を見ることで時間が過ぎていくのに対して
子供が就学以降は内面的な成長や子供が社会と接点を持ち融合していく過程を支援できるのは自分しかいないのだ、と言う部分が大きい。
24時間、親は子供の人生のことを考える。
子供は一人の独立した人間で、自分の人生を生きるのは本人の責任であり、そこを親が介入すべきではない、ということももちろん理解している。
それでも成人するまでの子供の人生を心配し、責任を感じるのは親が勝手にやっていることなので、しょうがない。
気になるものは気になるし、幸せな人生を送って欲しいとも思うからだ。
でも、じゃあ幸せの定義って何?みたいな話になるともうめんどくさいので話しかけないで欲しい。

妻は俺とはどこまでいっても他人なので、子供の話でところどころ意見がずれている。
しかたない。わかってはいるが、あなたはそう言うけど、じゃあもし子供が将来自分で生きていけない人間になってしまったときにどうするの?あなたが支えるの?という言葉をいつも寸前で抑えている。言ってしまった方が楽なのでは?と思うし、これを言わないのが俺と妻の夫婦としての欠陥なのだ、と最近では思うようになった。俺たちは仲良し夫婦のふりをして、大事なところは何も話さずに、核心に触れないままだ。
仕事上のパートナーなら、これでもいいのかもしれない。しかし、人生のパートナーとして見た時に、それは果たしてどうなのだろうか。
長い目で見た時に、俺たちはもしかしたらとんでもない過ちを犯しているのではないか、取り返しのつかないことをしているのではないか、と怖くなる。
でも本当のことをお互いで言い始めたとき、残るものは本当にあるのだろうか。
選ぶ道は、このままお互いの核心に触れずにこの関係性を続けるか、別れるかしかないのではないか、そこまで思うほどだ。

両親がスマホの調子が悪いとやってきて、見たことのない症状に悪戦苦闘しながらなんとか対応する。
俺はスマホの便利屋じゃねえぞ、と思うが一緒に暮らすとはそういうことなのだ、と言い聞かせる。
申し訳なさそうな顔をして父親がみかんを持ってくる。黙って受け取り、冷蔵庫に放り込む。
罪悪感。

なんとか日々やり過ごして自分の機嫌をとってきたのに、何もかもが行き詰まり始めている。
俺だけなのだろうか。空白といってもいい1年間の中で、もう元に戻らないのだろうか。
俺は本当に悲しい。こんな世の中になってしまったことが。
こんな世界で子供たちも生きていかなければならないことが。
たまらなく悲しい。