もうだめかもしれない。

大丈夫ですかと聞かれたら、はい大丈夫ですと言うタイプの人間です。

最終巻

息子のやけどは一日では治ることももちろんなく、相変わらず痛いらしい。

今日は学校で体育に参加したようだが、友達と体が接触する場面があり、痛くて思わず泣いたという。
しかし、泣きながら続行したそうだ。
あまりにもなんでもないことのように話すのでこちらが戸惑う。
本人としては気にしてなさそうなのだけど、そういうふりをしてるのか、実際あまり気にしていないのか。
泣きながら授業に参加し続ける息子にクラスメイトも戸惑ったのでは、とも思ったが触れなかった。

世の中的に鬼滅の刃がブームで、少し前から会社で咳が隣同士の同僚女性にコミックスを借りていたのだが、
ここ最近妻の方が俺以上に熱中しており、発売日に「これしかなかったけど、買った」と言ってフィギュアと同梱されている
5千円以上する豪華版みたいなのを買ってきていた。なので、借りる前に最終巻を読めてしまった。案の定泣いた。
吾峠先生は感謝をし過ぎている。こちらが感謝である。

ところが今日会社に行ってみると、
「遅くなってごめん!これ最終巻!」
と最終巻を差し出してくれたので
「これ、どこ行ってもないらしいですね!ありがとうございます!!」
と行って受け取った。俺も大人になったらしい。

妻にそのことを言うと、
「そこで受け取るのがいいところだね」
といってもらえたのが、そこで「あ、もう読んだんで」って言う人、ヤバくない?ずっと今まで借りといて。

会社がテレワークを強行に推し進めており、再来週から強制的に俺たちの部署はデスクがなくなってしまう。
そんなわけでここ最近毎日のようにデスクの整理をしている。膨大な紙の量。
これだけの紙を俺は何年も溜め込んでいたのか。そして、何年も必要にならなかったのか。

そう考えると確かにほとんどの資料というのは必要ではないのでは、ということがわかる。
テレワークが当たり前になってくると、色々な今までの「見ないことにしていたこと」がバレる。
固定のデスクはいらない。固定の電話もいらない。会議室はいらない。電話番の人員は無駄。定期は廃止。コーヒーサーバーなど不要。
ミーティングはオンラインでOK、商談もオンラインでOK、出張はいらない、チームメンバーとは会う必要はない。
在宅、在宅、在宅。家から取引先に行け、出先で仕事しろ。パソコンもスマホもくれてやるから会社に来るな。

そんなふうにどんどんどんどん仕事をするためにいろんなところに割り振ってストレスを軽減するために役立っていたものが
削られ、俺たちはその少しずつのストレスを自分で請け負うことになった。

今の段階でそれが積もり積もったとき、どんな影響になって自分たちに襲いかかってくるかなんて誰も考えない。
既に100くらいの不満や不具合の想定は出てきているが、そんなことは「変化についていけない人間の戯言」でしかない。

きたるべきよるべない生活に備え、自分が少しでもストレスを感じない環境づくりを自分なりに進めている。
これからパソコン、アイパッド、会社のスマホ、自分のスマホを基本的に持ち運ぶ生活が始まる。
これだけでもどれだけの重量か。
そう考え、いいリュックを買うことにした。
リュックと言ってもピンキリで、とにかく高いものは高く、安いものは安い。なんでもそうだけど。
なので、中間くらいの価格帯で、自分がピンと来るものを選んだ。
もうあとは使ってみてダメならダメで、また考えるしかない。

コーヒーサーバーもないから家から持ってくための水筒を買った。

テレワークは金がかかる。俺たちはもう、会社にいることすら許されない。

スープ

ここ数日急に寒くなった。
とても寒い。

せっかくMacBook Airを買って気分一新、ブログを書こうと思ったのに、
MacBook Airは全身アルミだからなのか、さて、書こうかと起動させると
手首のあたりを載せる部分がキンキンに冷えていて、文字を打ちながらどんどん体が冷えてくる。

ファンがないので過熱してしまうこともないのだが、
あったかくなることもないので、いつでも冷え冷えのようだ。
クールである。

今日は事件があった。
息子がやけどをしてしまったのだ。
しかも原因はほぼ俺。

妻が仕事だったので、たまにはパパがチャーハンでもつくってやっか〜などといい父親ぶったのがいけなかった。

チャーハンはいい感じで出来上がり、息子に渡す。
息子がチャーハンをダイニングテーブルに置き、
俺は同時に作っていた丸鶏ガラスープを溶かして刻んだネギを入れただけのなんちゃって中華スープを温め直し、
カップによそって息子のもとへ持っていこうとした。
その瞬間。
テーブルについていると思っていた息子がなぜかすぐ俺のわきにいたのだ。
恐らくよそったカップのスープを受け取りに来ていたのだろう。
よく見ていなかった俺は振り向きざまのスピードのまま、すぐ近くの息子にぶつかり、そのまま火を入れたばかりのスープを
息子にぶちまけてしまった。

そこからはパニックだ。
俺も息子も半狂乱になりながら風呂に行きシャワーで冷水をかけた。ところが、気が動転した俺は息子の服を脱がせてしまった。
あとから調べたら、これはしてはいけないことだったらしい。
脱がせたことによって、皮膚が剥がれてしまった。息子の胸のあたりの皮膚ははがれててしまい、そのしたの皮膚が赤くなってしまっていた。
「痛い!」と泣き叫ぶ息子。俺は泣きそうになりながら必死に頭を回転させる。どうする、日曜日にどこがやっている?小児科で、救急でみてくれるところは近所ではどこだ。保険証をさがさなければ。はやくしないと皮膚がどんどんまずい状態になるのでは。
息子と俺の騒ぎを聞きつけやってきた妹がわけもわからず状況の異常さと兄の皮膚の様子に泣き叫び始め、室内は地獄のような有様だった。

結局確証もないまま、すぐ近くの緊急の外来をやっているはずの病院へいくことにした。
俺が6歳のとき、交通事故で運び込まれたのもこの病院だったので、行けばなんとかしてくれるのでは、という期待もあった。
ここで見てくれなくても、どこへ行けばいいかくらいは教えてもらえるのではないかと思ったのだ。
ここ数日コロナ患者の急増で医療が逼迫していることは重々承知しているつもりだったが、こうなったときには頼るしかない。
自分の不注意の結果とは言え、申し訳ない気持ちに息子への心配が勝っていた。

かぶりの服は皮膚にくっついて痛いだろうと思い、シャツを前を開けた状態で着せてその上からアウターを被せた。
コンロの火をとめたことだけを確認して妹も連れて飛び出す。
病院までは歩いて三分ほど。近い距離に病院があって、これほどありがたいことはなかった。
入り口には昼間の時間帯はコロナ対策で締切と書いてあり、緊急連絡先の電話番号が書いてある。
藁にもすがる気持ちで電話をかける。息子の皮膚の様子を見ながらコール音を聞く。
対応してくれた看護師にありのまま状況を伝える。自分の声があまりにも必死で、喋りながら第三者のような気持ちで少しは落ち着けと冷静な自分もいる。
一通り説明を聞いてくれた看護師が「少々お待ちください」と電話を切り、そのタイミングで妻に電話をすると、ちょうど電車に乗ってかえるところだったという。火傷をして病院に来ていることを伝えると、妻の様子が変わり、すぐに行くという。
そのタイミングで俺は自分がマスクもしないででてきてしまったことに気がつき、思わず口を覆った。

入り口が空いて看護師が検温をしてくれているタイミングで妻が病院に到着し、胸の火傷の状況を見てもらう。
「マスク忘れちゃって…」
というと、バッグから予備のマスクを出して「これ、私のだけど今日まだ使ってないから」
というので、ありがたく使わせてもらった。
息子は泣き止んだものの、痛みに顔を硬らせており、妹もまだ先程のショックからは立ち直りきれていない様子。
妻は俺たちを見て「またやけどしちゃったね…」といった。息子は2歳の時、自分でカップ麺をひっくり返して太ももをやけどしたことがあるのだ。

待合室の長椅子に座り、待つように言われる。
本来は受け付けていない時間帯の、それも専門ではない子供の外来なので、どれくらい待たされるかわからない。
もしかしたた数時間コースかもしれないと腹をくくり、妻に、保険証も持っていないし、家の戸締りも不安なので、一度家に帰って見てきてくれないか、と頼む。

すると、五分も経たずに名前を呼ばれる。
診察室に入ると医師が息子の様子をチェックし「ああ!これは痛いよね。水疱が破れちゃってるのか。消毒しましょう」と言い、
看護師が消毒と軟膏のようなものを塗ってくれ、そのままガーゼを貼って応急処置をてきぱきとしてくれる。
どうしてこんなことになったのか、を説明しているとき、それまで何も考えていなかったのに、急に「虐待していると思われたらどうしよう」と余計な考えが頭をよぎり、少しどもってしまう。息子の救急時に自分の保身のようなことを考えてしまい、自己嫌悪になる。
医師は特に気にした様子もなく「明日も来てね!」と言い、今日はそのまま帰って良い、という。今日は緊急なので、とりあえずの緊急処置なのだろう。ただ、このまま即何かしなくてはいけない、というほどのやけどではないことがわかり、ほっとすると同時にどっと疲れに襲われる。

待合室に戻り、妻と妹と会う。
医師の診断結果を告げ、そのまま今日は帰ることにする。
息子はすっかり静かになり、家に着くとそのまま誰に言われるでもなくベッドに入り、寝始めてしまった。
家の中は先程のパニック状態の残骸があちこちに散らばっており、コンロの上には冷えたチャーハンとスープがそれぞれフライパンと鍋にはいったまま。ぶちまけられたスープはフローリングで乾き始めており、刻んだネギがシンクにこびりついていた。
部屋を掃除していると妹がお腹がすいた、というので冷えたチャーハンをレンジで温めて出したが、少し食べて、いらない、と行って部屋に戻った。
俺も空腹を急に感じ、残ったチャーハンを食べた。こんなものつくらなければ、と鍋に残ったスープはそのまま流しに捨てた。

夕方息子は少し元気になったようで妹と遊びはじめ、普段通りのような喧嘩までするようになった。
痛みはないか、と聞くとだいぶ良いという。妻と今後はスイミングはしばらく休み、体育も内容によっては見学させてもらう方がいいという意見で一致する。連絡帳に妻が担任への連絡事項を書いてくれた。「親の不注意により、って書いていい?」と聞かれたので、問題ないというとそれを聞いていた息子が「いいよ、パパのせいじゃないし。僕が見てなかった」などと言い出すので、言葉に詰まってしまったが、親のせいで間違いない、と書いてもらう。

胸に貼られた大きいガーゼが痛々しいが、夜になる頃にはすっかり元気な様子で、走り回るようになり、顔にかからなくてよかった、と心から思った。

MacBook Air

MacBook Airを買った。

辛い一年を頑張った自分へのご褒美として。
他に労ってくれる人もいないので、自分で自分を褒めた。

今もそこから文章を打っている。
買おうとちょうど決心したタイミングで、インテルではない、アップルの新しいCPUを搭載したモデルが出るとかで、バグが出るから今は買わないとかって言う人がネット見たらたくさんいたけど、買いたい時が買い時ですよ、と20年くらい前に初めてパソコンを買った時に今は無き秋葉原さくらやで言われた店員の言葉が頭をよぎり、思い切って買ってしまった。

キーボードの打鍵感とか、文字変換の感じがまだちょっと慣れないんだけど、こればかりはしょうがないのかな。仕事ではDELLのウィンドウズパソコンなので、単純な文字入力という意味では圧倒的にそちらの方が打ちやすいんだけど、MacBook Airに関していうと、今の俺にとっては9割型「MacBook Airで文字を打っている」ということが大事。

今まで心の中でずっと「家でやれ」と思っていたスタバでMacBookをやってしまうか。
でも、俺のことだから、ほぼ100%頼んだ飲み物をパソコンに倒してこぼし、店内中に響き渡る声で絶叫する様が目に浮かぶ。恐らく十中八九この想像は当たるだろう。

しばらくは家の中だけで、密やかに文字を打ち続けようと思う。

地獄

会社の同僚である女性と昼食時に話す機会があった。

俺より少し年上で小学生の男の子と二人のママでもある。


子供の友達の親と親同士で会う機会があったらしく、その席で一人の父親が
「女子高生は芸術だから」
と言ったのだという。


場は白け、女性陣は一斉に引いて行くのがわかったのだそうだ。
その場の雰囲気が眼に浮かぶ。
その父親の奥さんという人はあまり気にしている様子もなかったそうだ。

そしてその父親は「子供は女の子じゃなきゃダメだ」と力説していたのだと言う。

なんと言うか、日常の中にそうした異常な人間が紛れ込んでいるという事実をうっかり知ってしまうと、
具合が悪くなる。


どれだけ気をつけていても俺たちの思う安全なんてしょせんこんなものじゃないか、と思い知らされた気がするからだろうか。

地獄も、悪魔も、すぐそこにいる。
俺たちはいつでもすぐに逃げ出せるようにしなくてはいけない。

イカ2貫

スシローに行った。


夜に車に乗って外食に行く、というのは俺が子供の頃の記憶だとかなり特別なもので、
何らかの記念日とか、何か自分にとってすごいこと(賞をもらったとか、スイミングで進級したとか)がないと
連れて行ってもらえなかったと思う。


特になんのお祝いでも記念でもなかったけど、そういう夜に車で出かける、という特別感みたいなものを
子供達にも感じてほしいと思って、車の運転も得意ではないのに頑張った。


夜なのに加えて雨が降っていて、おまけに最近まともに車に乗っていなかったからフロントガラスが汚れていて
汚れたところに雨がついて、ワイパーを動かしたら油膜みたいにギラギラと濁り出してしまい、死ぬかと思った。


お寿司自体はおいしくていっぱい食べてしまったのだけど、お店が混んでいるのに加えてどうみても働いている
店員さんの数が少なくて、注文しても全然こない上に、オーダー品を知らせるシステムの調子が悪くて何度も頼んだものが
通り過ぎてしまった。


俺と息子が食べたかったイカがこなくて、仕方がないので店員さんの呼び出しボタンを押した。
だいぶ待ってからやってきた店員さんに説明しているときに
「このイカ2貫が済みになってますけど、まだきていないんですよ」
というと店員さんも
イカ2貫ですね」
と繰り返し、間違いなく俺と店員さんの頭の中には千鳥のノブが浮かんでいた。


店員さんが行ってしまった後に妻が「イカ2貫」と繰り返すように呟いた。


帰りのフロントガラスは雨で綺麗になっていた。

けんか 

子供と喧嘩ばかりしている。

自分の親もこんな風に毎日自己嫌悪に苛まれていたのだろうか。

愛おしく思う気持ちと憎らしく思う気持ちが目まぐるしく入れ替わり我ながら情緒不安定かと思うが
親だって人間だし、間違えることもあるし、責めることないよ大丈夫大丈夫、とセルフで励ます俺。


この間なんかの話の流れの中で俺は育児も家事もちゃんとやって仕事もきちんとやっているんだ、ということが
はっきり明言しないまでも態度に出てしまったのか、妻に
「そうやって他のやつと俺は違うんだってマウント取ってるんでしょ」
と言われて思わずはッとしてしまった。
図星だったし、言われて恥ずかしかったし、何よりバレてたんだってことがショックだった。
俺は誰かと比較しないと安心できないままずっと今に至る生き方をしてきてしまったし、きっと根本的なところではこれからも変わらない。

つらい

昔に比べると文章を読めなくなった。


理解力が少なくなったのか、なぜか考えることができなくなってきている。
こわい。アルジャーノンに花束をみたいに俺が書く文章もどんどんひらがなが増えて語彙が減っていくのか。


この間読みたかった文芸雑誌買って、少し読んだだけで目が文章を上滑りしているだけで、全然行を進んでいないことに気が付いて愕然とした。


自分の好きなことも満足にできなくなったのか。
どうすんだよこの先。

よむこと

加藤はいねさんはもうブログを更新しないのかな、と思いながらブックマークを思い出したように時々開いては閉じを繰り返して
3年が経った。

いまだに最新記事は変わっていない。

医療現場にいらっしゃる方なので激務かと思うし、
このコロナの一連の騒動でさらに大変な思いをされたのかもしれない。


楽しい文章、面白い文章。読みたいと思う文章。
そういう文章は読んでいて脳みそから何かが出ているのを感じる。
いつまでも読んでいたい。違うものも読みたい。もっと読みたい。読ませてほしい。
中毒性があるのだ。


俺は自分の信じる人の文章を読むことで救われている。
俺にとって読書に限らず文章を読むことは信仰であり、祈りである。

相棒

ロボット掃除機とサーキュレーター付き除湿機を買った自分を褒めたい。


間違いなく俺のクオリティオブライフは上がったと言える。


もともと掃除は俺がやることが多かったのだが、3月以降家族全員在宅率がどうしても高くなり、
家にいることが多くなると子供達がおかしを食べることも増えて、家で喧嘩することも増えて、
家の中が必然的に荒れた。


それが嫌で毎日毎日土日も、会社から帰ってきても掃除をしていた。
テレワークで在宅率が上がってからはもっと掃除するようになった。

そのうち掃除があまりにも生活の一部のようになってしまったことに嫌気がさして
「もう子供達の部屋は掃除しない」
と宣言したが、1日で断念して、ゴミを回収して回った。
俺の衛生観念が我慢できなかった。

ロボット掃除機は安いものを買ったので、とにかくあちこちぶつかって動き回って掃除する。
その姿が少しバカな感じで、とてもかわいい。
いなくなった元飼い猫のもんたの名前をもらって「もんちゃん」と呼んでいる。

もんちゃんはよくコードを飲み込んで「たすけてー」という感じでピーピー鳴く。
なのでそのたびに助けに行ったり、コードを片してやったり、正直てはかかるのだが
「自分以外に掃除を手伝ってくれる存在がいる!」
というのは思いの外俺に大きな癒しをもたらしてくれた。精神的に味方がいる、というのはとてもプラスになる。


サーキュレーター付き除湿機も心強い。
秋はここ数年雨が多く、台風も年々増えている気がするくらい長いし多い。
夏の間に嫌な予感がして購入したが、先月末から活躍しっぱなし。

家の乾燥機は洗濯機のおまけみたいなものしかないからタオル類くらいしかまともに乾かせないので、それ以外の衣類や
靴下、下着といった細々としたものは全て折りたたみ式の物干しを広げて、そこにかけ、この除湿機をつけると数時間でまともに乾いている。

これは嬉しい。
サーキュレーターで風を当てているからなのか、乾燥時間が短縮できているからなのかわからないが、部屋干しの嫌な匂いもほとんどしない。


タンクが除湿した水でたっぷりたまっているのをジャバジャバ捨てるのも嬉しい。
「おまえ、こんなに頑張ってくれたんだな」
と嬉しくなる。

今の俺にとって、家事を手伝ってくれるロボット掃除機と除湿機は、相棒である。

唐揚げ

生活が落ち着いたら、この仕事がひと段落したら、子供の手がかからなくなったら。


何かを始めないことへの言い訳というのは恐ろしいほど簡単に
たくさんあっという間に思いついてしまう。


でも、何かを実際に始めたことは、驚くほど少ない。
ほとんどないと言ってもいい。


最近ではむしろ始めないことに快感を見出し始めているのではないかと疑いたくなるほどだ。


なんでもないことをなんでもないように楽しんでいる人がいる。
つらいことを淡々と受け入れる人がいる。


俺たちに等しく分配された人生の時間をどのように過ごそうと自由なはずで
俺はそんな自由を与えられている国に生きているのに、
そして自分の意志さえあればできるはずなのにやらない。
いつまでもソファに縛り付けられたまま動き出せないでいる。


今日は娘と二人で近所のショッピングモールに行った。
サンリオショップがあって、そこでピンボールのゲームをやった。
クロミちゃんの場所にビー玉が入って、おかしのつめあわせをもらった。
娘は、サンリオのキャラクターの中で自分はクロミちゃんが好きだからよかった、と言った。
行きも帰りも雨だった。娘の足が濡れて、風邪を引かないように早く帰らなければいけない、と思いながら家路を急いだ。


人間ドックの検診キットが届いて、もう一年経ったと思って憂鬱になった。
妻が唐揚げをきちんと揚げてくれて、揚げたての唐揚げが食べられてとてもいい気分になった。
唐揚げの作り方で数ヶ月前に炎上していたことを、食器洗いをして、油の処理をしようとしたときに思い出した。
あんなに騒いでいたのに、それまですっかり忘れていた。俺たちはなんでもすぐに忘れてしまうし、慣れてしまう。
恐ろしいことも、大変なことも飲み込んでまるでなかったことにしてしまう。

唐揚げを作るのは大変だし、油の後処理は大変だ。
唐揚げ簡単でしょジジイが死んで、俺たちがあの炎上騒ぎを忘れても、それは変わらない。