もうだめかもしれない。

大丈夫ですかと聞かれたら、はい大丈夫ですと言うタイプの人間です。

少しは出来たかな

久しぶりにしっかりと出社して仕事。

まだ俺は出来るのでは?とか思うけど、多分完全ではないし、相手や業務限定な気がする。今日は優しい人と、軽い仕事の話しかしてないからだな。

 

母親に頼まれた買い物を通販で送ったら、不在で配達の人が持ち戻ってしまった。再配達してもらってよ、と言ったら今時の不在票は電話番号が無くQRコードだけなのでどうしたらいいかわからないと言われ思わずカッとなってしまう。

 

なんとか心を落ち着けて問い合わせ番号を聞き、ネットから時間帯変更をかける。

面倒だと思いつつなんとか今までやってきたことをこなすのにやはり精一杯という感じ。

 

明日は人間ドック。早めに帰ってきて夕飯を食べた。酒も飲めないし早く今日は寝てしまおう。人間ドックが終われば、やらなければいけなかった事柄が少し片付く。

精神科4回目。

 

毎回質問を考えてくるように宿題を出される。

今日は自分からついに薬をもらえれば症状はよくなるのか?と聞いたところ、あなたが自分から薬について聞いてくるのを待っていた、と医者は言った。

 

ついに、抗うつ薬の服用が始まる。

ネットで調べると、抗うつ薬は一度服用を始めると自分の判断で勝手にやめてはならないとある。勝手にやめると強い副作用があると。

半年なのか、一年なのか、何年かかるのかわからない。

長い長いトンネルが始まる気分だ。

俺は本当にこのトンネルを抜けられるのか。

 

 

草の響き

渋谷に東出昌大主演の映画を見に行った。

精神を病んだ男と、それを支える妻、友人、周囲の人々。

医者に勧められてランニング療法を始めた男は、公園で高校生の少年たちと交流を持つようになる。少年たちもまた、心に何かを隠している。

 

何か自分の探していることはないかと思い見に行ったのだが、余計に落ち込んでしまった。

 

精神を病んだ人間の感じの出し方、過剰過ぎず東出昌大の演技が上手くはまっていたから余計に自分と重ね過ぎてしまったかもしれない。

妻役の奈緒がかわいそう、という感情しかないが、旦那も病気だし、一人が精神を病むと家庭が崩壊する、という結論にどうしても行きそうになる。

 

安易なハッピーエンドではない。

彼らにとっての希望になる未来なのか、見る側に委ねられていたが、一歩前進したのには間違いないのだろうなと思った。生まれてくる赤ちゃんのためにも。

 

 

天気

少しずつ会社に行く回数を増やしているが、まだ完全ではないのでどうしようもなくなったらトイレに逃げ込んで個室で過ごしている。

 

ただ、この半年間ロクに外の景色を気にしていなかったが、ここ最近は天気のいい日にいい天気だな、と感じるようになった。

 

忙しいときや心に余裕がない時は季節の移り変わりや天候などの当たり前のことにも気がつかない。

 

天気の良い日に外で日に当たってぼうっとしていたい。

 

 

ジジイか

昨日は精神科、

今日は整形外科と通院が続いている。

 

病院の待ち時間や、よい病院の看護師や受付の見分け方など他の同世代よりはよく知っているつもり。

 

こうした知見をブログやYouTubeでマネタイズできるようなしたたかさがあれば報われるのだけど、そうする気力も度量も才能もないので、ただこうして記録をし、愚痴るだけだ。

 

受信した股関節の経過は順調だった、ということだけがよいこと。

半休を取ったので診察終わりに星乃珈琲店に来た。

ギリギリモーニングの時間なのでパンケーキを頼めた。

店員さんがいい人だった。

今日はいいことあったな。

よかった。

 

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こころ

心の病気になった。

 

精神科に行くのも3回目。

行くまでどんなものかわからなかったが、

想像とちょっと違っていた。

でも考えてみるとそりゃそうか。

 

医者なので、治療をする。

心の病気の治療とは、話をただ聞いて同意したり励ましたりするものではない。

最短距離で心の状態を客観的に把握し、

適切な今やるべきことを提示することだ。

はじめての精神科だが、よい先生に会えたのではないかと思う。

 

上司と話して担当業務を変えてもらった。

 

頭の中にずっともやのかかったような半年だった。

俺はこの半年のことを、ずっと思い出せない気がする。

令和3年の夏が過ぎていく

俺が嫌いな奴はいつまでも元気で全く人生にダメージを受けずに生き続け
俺の好きな人や快く思っている人、そして仲良くしている人や頑張ってほしいと思っている人ほど
気持ちいいくらい皆心を病んで家から出れなくなってしまったり死んでしまったり病気になってすっかり生きていくのに疲れてしまったり。
ここ数年続いているのはそんなことばかり。

俺が疫病神なんじゃないかって本気で時々思う。
そんな自分自身もここ最近仕事や家庭のことでごちゃごちゃと思い悩む回数が増えてちょっと体調にうも影響してきているので上司や同僚にも相談したり。

でも結局自分がそこで深い相談ができるような人間関係を職場で構築していなかったからいけないんだが、こういう本気で誰かに吐露するというレベルの思い悩んでいる内容を伝えても、表面上の仕事でしか関係を持っていない人というのは全然こうした悩みを吐いても響かないというか、なんならすげえ引くんだなってことが今回よくわかった。

自分に置き換えて考えれば確かにまあそりゃそうだよな、とも思う。
単なる一同僚から重めなメンタル相談されても、こっちも仕事外のところで給料も発生しないし、
お前の担当の精神科医でもねえし、ってなるわな。
勝手にカンセリングでも心療内科でも自費で行って治してこいよ、はい次。ってな感じで。
それだけ俺たちは他人に対しても自分の時間なんか割く余裕も時間もないってことなんだよな。
ただでさえそんなところに来てコロナで何もかも狂わされるようになってもいう2年目。1年半以上イレギュラーな生活をさせられて、もう去年の3月より前、自分がどんな世界でどんなことを思って暮らしていたのかも忘れかけている。

今も治療と経過観察を続けている足の怪我を負ったときもそうだった。
上司は心配そうな顔をしたが、この人は誰に対しても簡単に心配そうな顔をできる人だということがそのあとだんだんわかってきて馬鹿らしくなってしまった。重く捉えることの方が馬鹿らしい。
職場の人間とはその程度の関係性で構わないのに長いこと俺は勘違いをしていた。

ここ最近何もかも面倒で今日は1日寝たり起きたりを繰り返していただけだ。
子供にも怒鳴ってばかり。
やりたいことがたくさんある気がするけど、結局何も進めることができず、寝転がってスマホをいじっているだけ。
外に雨が降っているだけで何もする気がしなくなってしまう。
Amazonであの本も読みたいこの本も読みたいとポチって届いた本が重なっているのにどの本も少しずつ読んでは止まっているから前半にしおりが挟まったままの本が何冊も溜まっている。
何もかも進んでおらず、思考が散らばってあちこちで立ち往生したまま放置されている。
あれもやらなきゃこれもやらなきゃと焦燥感ばかりが募りそれでも時間ができても何もできずにただ横になってスマホをいじり続けている。

世の中をうまく、ずるく生きていく人間たちがいて、
そうした人間たちは周りから非難されようが全く気にしていない。
彼らにはそうした言葉は本心から絶対に響かないからだ。
きっとそうやって都合の悪いところが見えないまま、
気が付かないまま、勘違いしたまま、本当に彼らは自分たちの都合の良いところだけを
気持ちの良い過ごしやすいところを見つけて狡猾に生き抜いていく。
そうした才能や運にだけは恵まれている人間だけが、そのポジションにつくことができるのだ。

今日もそいつらは居心地の良い特等席で、周りの人間の視線も言葉も響かないほど分厚い壁の中で、都合の良い言葉だけが聞こえるフィルター付きのヘッドフォンをかけ、
不都合な内容がカットされるサングラスをかけて、誰かの苦労や努力や不幸の上に成り立つ恩恵を受け取って暮らしている。

そんな事実を避けずに直視せざるを得ない俺は、今日も生きるのだけで精一杯だった。
ソファに転がりスマホをいじる指先の筋肉と次から次へと映し出される映像を追うため目の筋肉だけが今日の俺の運動量だった。
令和3年の夏が過ぎていく。
疫病と自然災害で死にかけの、いやすでに死んでいる日本が、死体を蹴り上げるようにまだ次から次へと弱りきって横たわる日本が蹴り上げられ続けている音がする。
ソファで死体のように横たわる俺と同じだ。この国に暮らす人。今死にかけでそれでも必死で生きている人が、生きていることに疑問を持ってしまうようなこの国で、この毎日で、それでも生きている全ての人の存在を感じたくて俺は今日の文章を書いた。

他人の日記

ブログって、つまり他人の日記だと思うんだけど、
どこの誰かもわからない人間の、しかもプロでもない人間の書く文章読んでどうすんだって自分でも思う。
思うんだけどブログを書く自分がいて、誰かのブログを読む自分がいる。

定期的にこの思いは俺の中で湧き上がってはまあどうでもいいか、と沈静化するというループを繰り返している。

はてなブログで文章を書くようになってもう7年目になっていて、書かない時期もあったりするから正確ではないけど、それもこれだけ長い期間仕事以外で続けていることなんて他にないから、俺はいかに他に何も続けられないかがわかるし、自分は文章を書くことで何かを保っているのだろうと思う。

絵が描けるなら描いていただろうし、歌が上手ければ歌って投稿していたのだろう。
何か自己表現できるものが欲しかったからだろうし、こうした文章は俺の日記だと思いつつ、結局は読んでくれる誰かがいることを想定しながら書いているのが我ながら気持ち悪いと言うかいやらしいというか。

妻と今日話をしていて、俺は妻を羨ましいと思う、と伝えた。
それは大きく言うと2点あって、それは妻が人と自分を比べない、ということと
周りの雰囲気や状況に左右されない、ということだ。

俺は自分の基準がないので結局誰かと比較してできたかできないかを確認している。
そのため、少しでもできないことがあると激しく動揺してそれ以上のことができなくなってしまう。
できるはずだったことすらできなくなる。
妻はそもそもできるできないを気にしておらず、自分はこれをできる。あの人はこれができる。
それでいいでしょ、なんで私があれもこれもできなくちゃいけないの?という考えが根本にあって、それは角度を変えれば屁理屈とも言えるのだけど、正論とも言えるし、そもそも俺が培ってきた文化や価値観と根本的に違っている。だから俺は妻とあまり衝突しないで済んでいるのかもしれない。
俺と近い価値観の人とだったらきっとこんなふうに接することができていない。

それに、俺は周りの空気や雰囲気にものすごく左右されてしまって、家の中でも子供が喧嘩を始めた途端に他のことは何もできなくなってしまう。喧嘩が終わるのをじっと耐えて待つことしかできない。父親面して喧嘩の仲裁を試みたことも昔はあったかもしれないが、今ではただ嵐が過ぎ去るのは一番事態の収拾まで時間がかからないのだとわかってからはできるだけ気にしていない風を装うようにしているが、もちろん心の中は全く穏やかではない。
そんなとき妻が何をしているかというと、涼しい顔でミシンをかけていたりするのだ。
周りで怒鳴りあっていても。そんな環境でも自分のやりたいことを、自分はこれがやりたいからとやり続けている。時間を無駄にしていない。本当にそんな妻の姿が羨ましい。
このことを本人に伝えたところあまりピンときていないようで「そうかなあ」と言っていた。本人は無意識なのだろう。

話は戻るが、他人の日記を読む意味なんてどこにあるのだろう、と思っていたけど一番はやはり自分以外の誰かも「生きている」ということを一番わかりやすく知れるからだ。少なくとも俺にとってはブログが一番俺以外の他人が今一緒にこの時代を生きていることを伝えてくれるメディアなので、読んでいて安心する。精神的な支えなのだと思う。
ここ最近YouTubeで人気のルーティン動画というのも同じではないだろうか。
やはり皆、他人の生活を、生きている記録を見たいし、知りたいのだと思った。

俺も7年前の自分を時々読み返したりするが、自分ですらそのときの記憶は正直ない。
何を思って書いていたのか、本人にすらわからない文字の記述がインターネットに残り続ける。
誰かの目に止まって、その瞬間何かをその人に感じてもらえるかもしれないと思って。

ワクチン

先日、俺の住む自治体でようやく俺と妻の世代の申し込み受付がスタートした。

接種が始まったのではない。
接種をするための、予約の受け付けがスタートしたのだ。

ネットの予約をするためにスマホ片手に時計とにらめっこをして準備したものの、
ログインした途端、八月いっぱいまでバツ印。
今ログインしたばかりなのに、だ。
いくつかの会場を考えて検索してみる。
三角印を見つけ、クリックするものの「予定人数を上回りました」の文字。

結局、俺たちは予約の申し込みすらできなかった。

実家の親の元へ諸用で顔を出すと、ワクチン2回目をとっくに終えた高齢者の父親は仲間とゴルフに出かけている。

食事を取りに近所の寿司屋に行けばマスクをつけずに入ってきた老人が
「マスクしてくるの忘れちまったよ!」
「ワクチンはしてあっからよ」
を大声で店主に話しかけている。

俺は黙々と食事を済ませると逃げるように店を出た。
老人は酒を飲みながらなおも話し続けている。
「ええ、ええ」
と困惑しつつも必死に相槌を打ち続ける店主の顔を、俺は見れなかった。

なんて素晴らしい、住みやすい国なんだろう。
俺はもう、この国で生きるのは十分だな。もう、十分だ。

インプット

37歳になるが、本当¥に必要なことを何一つ身に付けずにここまでやりすごしてしまったんだな、と本当によく思う。

昨夜3年生の息子が珍しくニュースを見て、
わからなかったことを俺に聞いてきた。

俺も正直なところ、はっきりわかっていなかった。

自分が理解している範囲で話したが、あっているのかどうか怪しい。
もしあっていないのだとしたら、俺は嘘を子供に教えていることになる。

からかったりするわけでもなく、単純にわからない、知らないという無知により子供に悪意なく嘘を教えてしまう親。
グロテスクすぎる。

急に怖くなった俺はどうしたらいいのか悩んで、
結局何をしたかというと「朝日小学生新聞」を取ることにした。

子供と一緒に読んで知識をお互いつけていけたらいいなと思うけど、
どうせ最初は子供は読まないだろうから、俺が自分のために読む。

俺くらいの知能だと小学生向け新聞でちょうどいい。普通の新聞なんかまともに読んで理解なんかできやしないのだから。

ここのところまともに本を読めなかった反動で、いわゆる積読の本がたくさんある。
Amazonで欲しいな、という本はたくさんあって、衝動的にポチった本がたくさんあったのだ。

それらの本を今少しずつ読んでいる。
それにしても集中力が落ちた。
加齢のせいか、精神的な余裕のなさか、あるいは何か別の原因なのか、一行読んでは休み、また一行読む、というような有様。
文庫本一冊を通勤の行き帰りに読み終わっていたあの頃の俺はどこに行ってしまったのか。

それでも少しずつ本を読み進めていけべいつかは読み終わると信じて、少しずつ少しずつ読んでいる。