もうだめかもしれない。

大丈夫ですかと聞かれたら、はい大丈夫ですと言うタイプの人間です。

足元

後輩に「靴たくさん持ってますね」と言われてドキッとした。それを言って来た後輩は男性なので、別にそういう意味のドキッではないんだけど、つまり「靴って見られてるな」ということである。先日の記事にも書いたが俺はここのところ靴を通販でよく買っていた。というのももともと会社に履いていける靴を2足しか持っておらず、交互に履いて数年過ごしていたところ、ろくに手入れもせずに履いていたものだからボロッボロになってしまい、ある日ふと気がついたら同僚の足元と見比べて、自分の足元がまるでゴミのように感じたためだ。これはさすがにまずい、と靴を買い替え、買い始めたら止まらなくなって一気に5足買ってしまった。そのため俺は今1週間毎日違う靴を履いて会社に行っているのだが、2週目になってそれを言われたのである。「毎日違う靴履いてますね」と。おっさんの足元も若者は意外と見ている。ベロみがき用の歯磨き粉(矛盾しているけど)とか買ってケアしたりしているかいがあった。身だしなみに気を使わなくなる境地に達したら俺もネクストステージだが、今はまだ、もう少しここであがく。

大人

同性、同世代のみで集まって飲む機会があった。アラフォーの男という存在自体が比較的貴重なこの会社で、普段あまり接する機会もない人たちと話して見ると、仕事の話、家庭の話、お決まりの下ネタと盛り上がる。皆社会人として10年から15年近くを過ごして来た男たちなので、初対面でもそつなく話もできるし、それなりに踏み込んだ話をし、核心を突きすぎるような話題は巧妙に避けて会話をすることもできる。俺たちはなんだかんだ言って「大人」になって、それなりに交流関係を築けてしまう。翌日にもう二度と一緒に飲むことがたとえなさそうであっても「また集まりましょう」というメールを打つことまで含めても。

何者でもないし

中学生の時に父親と「12人の怒れる男」の舞台を見に行った。青年座だったと思う。帰りにドトールによってジャーマンドッグを食ったと思う。そういうことを急激に思い出したりする。それを俺はマック・デマルコのchamber of reflectionを聴きながら思い出した。繋がりはどこにもない。父親は芝居に興味のない人間だったが洋画が好きで家にアホのように洋画のパンフレットが段ボールいっぱいに詰まっていたのを覚えている。映画を見たらパンフレットを買う、というのが当然でそうしない選択肢はない。そう考える世代で、そう考える人間だった。買った後読み返すと言うことも特になさそうだったので、段ボールの中でただすえたにおいを放つそのパンフレット等を俺は小学生の頃によく読んだ。「エクソシスト」とか「サスペリア」とか「時計仕掛けのオレンジ」とかがあったと思う。子供心に「なんかやべえ映画なんだろうな」と思いながら見ていた。いつか俺が溜め込んだ小説を息子か娘が引っ張り出して勝手に読んだりするのだろうか。しない可能性の方が高いが、俺はそうしてほしいと思っている。してくれたら嬉しいな、が率直な感想だ。むしろやってくれ。やれ。そして俺と一緒に渋谷かどこかの単館上映の映画を見に行こう。下北沢の売れなさそうな劇団を見に行こう。吉祥寺か何かのライブハウスで承認欲求に塗れた若者のライブを見よう。神保町で古本を買おう。あとで恥ずかしくなる文章を書いてネットに載せよう。ギターを弾いて曲を作ってyoutubeに上げよう。

知る人ぞ知る

地元の店が「名店」とかメディアで取り上げられたりすると、大抵の場合地元の人は「たいしたことない」「普通の店」「なぜ持ち上げられてるかわからない」などと言うことが多き気がする。「そうなんだよ!名店なんだよ!いやー鼻が高いな!地元からそんな店が出るなんて!」と喜んでいる人は少ないのではないだろうか。俺の地元にも少ないながらメディアで取り上げられている店があるのだが、ほぼ例外なく「なぜ、あの店が?」というレベルのものであり、いい・悪いは別にして「ただ続けていたら注目されるようになった」というのが正しいのだろうな、というような古い店ばかりである。この間家の近くの美容院に行ってその話をした。美容師も概ね賛同してさんざんその有名店のことを「まあ普通の店ですよね」などと言っていた。ところが不思議なもので、これが地元以外の場所となると誰が発信しているかもわからないネット情報などを簡単に信じ、地元の知る人ぞ知る穴場みたいな店に行って飯を食えたりすると「いやー、俺はいい体験をした」などと思うのだから所詮俺も馬鹿の一人なのだと思い知る。結局は自分がよければそれでよい、という話。

店員

店員さんとのやりとりというのがいつまで経っても苦手なのだが、誰でもそういうものなのだろうか。ある程度の年齢を重ねるとまあなんとなく上手くなるのだろうけど、いつまで経ってもお店の人、というのは自分より年上であるという認識が拭えず、自分より何歳も年下であろう若い女の子に接客されても緊張してしまう。何年か前に居酒屋に行った時、まだ学生と思われる若い男の子とが接客してくれた。本当に子供みたいで、下手したらまだ高校生くらいだったかもしれない。でも居酒屋だから高校生って働いていいのかな。よくわかんないけど。で混んでたので俺たちに「少し待つかもしれません」みたいなことを言うので「どれくらい待ちますか?」と聞いたらその男の子は焦ったのか、何もはまっていない左手を上げて、そこには自分の腕しかないわけだが「えーと」と言ったあとに「少々お待ちください」と言って裏に消えて行った。彼がいなくなったあとで申し訳ないけどめちゃくちゃ笑った。だって彼の誠実な接客態度と行動のミスマッチが面白かったから。何もしてないじゃん。腕じゃん。と言ってあげたかったけど、なんか悪くて言えなかった。そう言えばこれも数年前、子供を預け、久しぶりにたまにはちょっといい外食するか、と普段行かないレストランに行ったら料理をサーブしてくれた若い男の子(これも男だ)が料理の説明をしなくては行かなかったらしく、運んできた魚料理のことを「こちらは…スズキの…えー…すみません」と言って突然立ち去ってしまった。何だろう、と妻と待っているとジャケットをビシッと来た女性がやってきて料理の説明をし始めた。おいおい、少年。頼むよ。優しいお姉さんいてよかったな。まあ、そのレストラン俺たちがメイン料理は肉料理で、って頼んでたのになぜか魚のコースのメインディッシュ持ってきちゃってたから俺たち夫婦は肉料理も魚料理も、両方のメインを食べられることになり、腹いっぱいになっちゃうってミスも犯してたので、色々とポンコツだったのだが、料理は美味しかったし、接客もよかったので基本的には満足している。

通販

通販で靴を買っているのだが妻は「信じらんない。通販で靴なんて怖くて買えない」と言う。そんなに怖いことではない。なぜなら自分の靴のサイズなど知っているから。俺は26センチなら靴はなんでもいいのだ。ZOZOで26センチのいい感じの靴がセールになっていたので買った。届いた靴をうきうきしながら早速履く。ギッチギチでめちゃくちゃちっちゃい。足が痛い。両サイドはくい込むし、甲に関して言えば破裂寸前。靴全体がナイスバディがボンテージを着ているような限界寸前のセクシー具合。もうピッチピチ。なにこれ。26センチだっつったろ。靴を見ても箱を見ても26センチの文字。改めてサイトの商品情報を読み直すと「スリムなデザインのため、通常よりもワンサイズ大きめをおすすめします」の文字。うるせえよ。26センチって書いたのはそっちだろうが。通常よりワンサイズおすすめするなら26センチを25センチと表記しとかんかい。ということで今度俺は27センチを選んで靴を買ってみた。なんとこれが案の定、ガバガバ。俺はいまピッチピチの靴と、ガッバガバの靴を交互に履いて会社に通っている。助けてくれ。

視線

人を傷つけることに鈍感になりそうなことが怖い。年齢を重ねて色々鈍感になる。少し前までそれは加齢によるものだから仕方がないと割合簡単に諦めていく所存だったが、ここ最近年齢の若い世代と仕事を一緒にすることが増えてきたことを受け、そこに恐怖を感じるようになった。何も感じなくなった自分の周りで若い世代が何を思うのか。あの頃の自分が感性の死んだ上の世代の人間を蔑んで見ていたあの視線が、俺を射るように突き刺さる日も遠くないかもしれない。歴史は繰り返しあの日俺が突き刺した言葉の刃は放物線を描いて自身を貫く。

誕生日

予定をoutlookで管理するようになって1年以上経過した。アナログの俺からすると紙の手帳にペンで書き込んで予定を管理する以外の方法を取ることなど考えられなかったが今やすっかり馴染み手帳は買わなくなった。会社のPCでもスマホでも家でも全て同期できるし便利で快適。どうしてさっさと使わなかったのだろう、と己の無知さを後悔するばかりだが、一件だけ気になることがある。それは誕生日を登録している人がおり、その人の誕生日になるとiPhoneの予定表は勝手に「○○さんの誕生日です」と予定表にぶち込んでくることである。妻と子供の誕生日すら出てこないのに、どうして仕事の関係しかない、それもどちらかというと嫌いなてめえの誕生日を確認しなきゃいけねえんだよ、と凶暴な気分についついなってしまうのだが、消し方がイマイチわからずいまに至る。なので毎年イライラしている。

長いこと夢を見ないと思っていた。子供の頃はよく夢を見ていたのだが、最近見ない。まあ夢も希望もない毎日を生きていると物理的に夢も見なくなるもんですねハハハなんて思っていたんだが最近立て続けに夢を見たのでメモとしてここに記す。1本目。俺は何かの結果用紙を見ている。その用紙には何らかの跡がついており、その跡をくっきりと浮かび上がらせるために粉末状の物体が付着している。指紋検出のアレみたいなやつである。で、俺は何故かその用紙の上の方に唇をつける。上の方から大丈夫だろう、みたいな感じで。直後に唇に違和感を覚える。痛みと痒み。慌てて洗面所に行くと唇がパンパンに腫れ上がっている。近くにいる誰かが俺に「ダメだよ!そこに顔つけちゃ!洗え!」と叫び俺は慌てて洗面所で顔を洗う。すると顔が元に戻る。2本目。玄関にゴキブリがいる。もう一人いる誰かと「うわ!ゴキブリだよ〜」と話してまた顔を下に向けると羽を広げている。「あ、やば…」と言いかけた途端にそいつが「ブブブブブブブッ」と羽音を立てて舞い上がり俺の首筋にとまる。「うわああああああっ」と叫ぶ俺。すると現実でも俺は大声を出してベッドの上で飛び起きていた。時刻は午前5時。外はまだ薄暗い。なんなんだよこの2本立て。いい加減にしろ。

かっこいい

日常の中で期せずしてかっこいい言葉使っちゃったな、みたいな瞬間があり、その瞬間の雰囲気が愛おしく感じるのは何故なのだろうか。例えばなんだけど旅行もしくは出張の話をしていて海外の話題が出た時に「トランジットで…」という言葉が出ると「おお」となる。かっこよくない?トランジット。あと会社でこれは自然と言ってるのか、あえて意識的に言ってるのかわからないけど「スクランブルで…」とか出ると、いいですね。一時期横文字やたらと使う人をネタ的に揶揄する風潮もあったけどその辺りが一服してまあ普通に使う人もいるよね、くらいで最近は落ち着いている感じもするが、馴染んだとはいえ唐突に、そして自然な感じで会話の中に出てくると「かっこいい」と思ってしまうのは俺の心の中にいる中2的センスが刺激されるかもしれないからだろう。